2009年4月30日木曜日

デーリー東北新聞起原 2


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
死亡広告起原
吉田昌平、祖母フチ、葬儀は来迎寺にて、昭和二十一年四月二十一日
死亡広告はデーリー東北新聞の重要な資金源。また、この広告費が高い。これを値切る人もいないので大事なドル箱。 この死亡広告はデーリー東北新聞が始めたのではなく、奥南新報なども盛んに掲載。この奥南も戦後は命脈を絶ち、新聞不在の状態が八戸に出現、そこに穂積が政界進出の足がかりとしてデーリー東北新聞を発行。これほどまでに充実したのは、執筆陣もさることながら、専売所の支援があった。これを忘れてはいけない。

2009年4月29日水曜日

八戸図書館の手抜き

白井権八の落語をラジオで聞いた。その中の一言に気を惹かれ、それを調べてみようと思い立った。パソコンで蔵書を調べるがない。そこで県立図書館をしらべると該当あり。本の題名は立川談志、一応相互貸借の申し込みをしたが、八戸図書館蔵書の落語本に掲載されていないかと、落語、講談本を全部しらべた。すると、立川談志全集に白井権八が掲載されている。
 八戸図書館の図書検索機には、外題が載っていない。外題を載せればこうした二度手間、三度手間はないので厳重に申し込んだ。
 文学全集も同様、誰の全集の第何巻にあるかがわからないから、ひたすら目次を次々と探す。昭和のじだいじゃない、平成の御世、もうすこし知恵を廻せ知恵を。
 そこで探した一言は、「お言葉、まことにもってかたじけなくはあれど、聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、と、幡随院長兵衛どのにはよしなにお伝えを」
この山賊が鈴が森に居る、山賊退治中に出るのが、長兵衛、「お若いのお待ちなせぇ」「待てとおとどめなさりしは、手前がことでござるよナ」と有名な掛け合いになる、歌舞伎「ご存知、鈴が森」となる。
 たった、これを探すのに苦労だ、苦労だ。
武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、これは八戸市役所に聞かせたいもんだ。

デーリー東北新聞起原 1


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
オリエンタルダンスホール
三日町の今度建つ市の施設は昔はユニバースの前身、三万百貨店、戦時中は飛ばない飛行機、実物大の模型を造り高館飛行場に陳列、毎日、位置を変えて、動いているように見せた。敗戦後、駐留軍相手のダンスホールになった。オリエンタル酒店は社長の佐々木正太郎の店、今でもロー丁にあり。
会長が三浦萬吉、常務が伊藤裕、総務部長も兼務、取締役に穂積の名も。同、大津毅、監査役に佐々木耕平、同、泉山重吉、テキヤの親分、後に中央劇場を経営し大儲け、水目沢の米軍キャンプから米兵がオリエンタルダンスホールで無法なことをした。当時の警察は国警と市警察で腰抜け、互いに相手が出ろとしり込み、それを私警察の泉山がたたき出す。暴力には暴力が解決。ところがMPが出てきて、泉山を探す。捕まれば沖縄送りで重労働、これを隠しに隠すのが日本人たち。この功績が映画館設立に結びつく。業務部長に戸田雄三、経理部長、中村弘、総務課長馬場弘一、第二課長佐々木興平

2009年4月28日火曜日

横のつながり欠如の教育委員会

クサナギって男が公園でチン出して逮捕だ。この男は他人の家を覗き込むような格好で、テレビが見えなくなりますと、地デジの広告だ。見えなくなったのじゃない見えるようになったのが、地デジだけにチン出じだ。
新聞も書いたナ、出金男、金を出したのじゃない、世の中、金と玉とあるが、金をだした。金(かね)を足長おじさんで恵まれない子等にだせばいいが、金だして子等からコラと怒られたのも妙。この男はスマップとか素モップとか床を磨く道具のようなグループにいた。その中に稲垣吾郎ってのがいて、こいつの親父と大学が一緒だった。なかなか活躍したグループだったが、金出しておこられるのも不思議だ。
さて、枕はこのくらいで、鮫神楽が国立演芸場に出演したことも、教育委員会は知らない。それが、郷土芸能を保存するのだから、物知らずに道を尋ねるようなもの。
 これが八戸の現状だ。それでも、市政は廻るのサ。職員は目先しか見ていない。十年先は夢の又夢、五年先は御念がいるよで、念入りにはならない。御念がいるは念の尊敬語だが、からかい半分に、そうなるのかという意だ。
いやいややるんだ、職員たちは。だからいい仕事ができるはずはさらさらない。このDVD作成も、郷土芸能を保持、保存する点にある。少子化で演者があつまらない。今回の撮影に小獅子がある。これは角兵衛獅子。角兵衛獅子は越後獅子を指す。これには親方がいて、子獅子をつとめる子供を養子にもらい、彼らを育てながら芸を仕込み、そうした子供を数人連れて日本各地を廻り生計を立てていた。
そのとき、いくらかの金銭の授受が親方と実の親との間にあり、子供の身売り金ということになる。芸の諸国巡業は江戸中期から、明治に入り減少、大正期にほとんど姿を消した。昭和八年には少年虐待防止法ができ、金儲け目当ての子供の獅子舞は禁止された。
新潟県西蒲原郡月潟村(つきがた)村の郷土芸能だが、もとはかどづけ芸。扮装(ふんそう)は、小さな赤獅子頭を頂き、筒袖(つつそで)の着物にたすき掛け、まんじ紋の胸当、裁着袴(たっつけばかま)に白手甲、下駄を履き、腹に腰鼓。芸は、金の鯱(しゃちほこ)、蟹(かに)の横這(よこば)い、獅子の乱菊、よどの川瀬の水車の一人芸、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越し、唐子(からこ)人形の御馬乗り。江戸風俗を飾り、長唄、舞踊劇、下座(げざ)音楽などの題材となった。
また、これは美空ひばりの越後獅子の唄で全国に知られた。作詞:西条八十、作曲:万城目正
笛にうかれて 逆立ちすれば山が見えます ふるさとのわたしゃみなしご 街道ぐらしながれながれの 越後獅子
今日も今日とて 親方さんに芸がまずいと 叱られてバチでぶたれて 空見上げれば泣いているよな 昼の月
 この二人芸を八戸の鮫神楽は小獅子と呼ぶ。この芸の収録中に力がなくなって最後まで演じきれなかった。この鮫神楽の親方だった高橋下駄屋のご主人も昨年十一月になくなった。
 大層、鮫神楽の保存に尽力した人だった。惜しい人を亡くした。肺ガンだった。この人が後継者問題を憂いていた。たまたま、発表会を見に来た子どもが母親と来たと嬉しそうに語っていたのが、昨日のような気がするが、一年半も前になるか。人の生き死にはわからないものだ。
 その子どもに体力がなく、小獅子が収録できなかった。後継者育成が叫ばれる。教育委員会文化財課がこれを作成、その本数は40本。小中学校には一本も配布されない。また、八戸図書館も置いていない。このDVDを見る機会をふやし、子等にやってみたい、テレビに出たいの欲望を起こしてもらうことだ。ところが、学校教育課は同じ階にあれども、相互連絡がないため、40本のうち12本は文化財課で眠っている。
 貸し出しはするというが、一般市民に見せるより、小中学生に見せ、演目に参加させることが大事だ。北稜中には郷土芸能「えんぶり」組がある。このように、学校単位で郷土芸能の担い手を探す必要性に迫られているのも実情だ。
 その音頭とり、旗振りを行政がやらずして誰ができる。それも教育委員会が一丸となってやる必要があるが、これら職員はダルイ。仕事は好んでしたくない。だから幾ら言われてもやらなかろう。市役所全体の課長会議、係長会議をしろと叫ぶも誰もきかない。が、こうした馬鹿げたことが現実にある。
 もっとDVDをプリントし、これを各学校に配布し、子どもたちにまねをさせ、小獅子発表会として、全校とりくみの郷土芸能発表会をすれば、体の柔らかい子から演者がでるかもしれない。要は動機づけだ。するのは子どもたち、その気にさせるのが大人の仕事だ。どれほど面白くても、爺が子どもの役はできない。背骨を折るのが落ちだ。年寄りの冷水ヨ。
 税金は子どもたちのために使うのサ。それには郷土芸能保存のために補助金を出すことだ。そうしないと、折角の芸能もしなびるゾ。クサナギ同様に……

2009年4月27日月曜日

入札の仕組み知らずに割り食ったサウンドクリエイト

沼館にサウンドクリエイトという音響とTV会社からニュース映像の下請け取材会社がある。もっとも、十年ほどつきあいがないので、最新情報に欠け、TVの撮影下請けはしていないかもしれぬ。
 その会社名を久々に教育委員会の入札でみた。鮫神楽のDVD作成に国からの助成金を得て、それを資金源として教育委員会が計画。
 市役所の中でも、一番胡散臭い仕事をするのが教育委員会、いい加減のチャンピオンのような所。三八五に昭和46年から随意契約で給食配送を出していた。市内に給食センターは三つ、これを競争入札にしてくれた、結句、三八五は一つしか取れなかった。ズルイことをしていればとがめが来るのサ。
 さて、このDVD作成にあたって、設計書を作成する。教育委員会は詳細がわからないから業者に聞く。そして設計書をその金額にする。それを随意契約で、聞いた業者に出す。その業者が設計書より少し下の額で請け負う。こうした図式が八戸市役所の一般的構図だ。
 これは「はちのへ今昔」に言わせると官製談合、彼等役所は黙して返答せず。ダメなものはダメ。
 先般、サン・コンピューターが落札した防災のホットするメールはパソコンの入札価格が175万、最高額は500万、どうなっているのだろう。仕様が決まっているのにこれじゃあ、しようがない。
 こうしたとぼけた金額の差も、市役所はかまわないという。それは物品購入はやすければ安いほどいい。だから出精値引きがまかり通る。ところが、パソコンだけだとタダの箱、これにソフトを付ける。これを随意契約でサン・コンピューターに出した。予定より高い金額でだ。
 この一連を見ると、安い価格で落とさせて、あとで面倒見る図式だ。これを暴露するのは簡単なのだが、市長選を睨んでいるのでまだ見せない。補助金詐欺が見えたからだ。これは従来の方法では見せない。新手の見せ方を検討中。これが出れば小林市長は打撃を食うは必至。
 さて、サウンドクリエイトは教育委員会から電話を受けて設計書の作成に加担。これをサウンドクリエイトが書いたのか、それとも教育委員会は聴取しただけで、サウンドクリエイトから書類は貰わなかったのかが、役所の担当者が替わったから不明。ともかく、サウンドクリエイトを上手に使って設計書、これは業務委託をするには、これなくしては予算編成ができないので必須書類。これを作成、いつもだと聞いた業者に随意契約で出るが、どういう訳か入札になった。
 入札だと一番安い所に落ちるとサウンドクリエイトは思ったのだろう。ここに落とし穴、どういうことかと言うと、物品購入はサン・コンピューターで見たように最低価格に決定、ところが工事や請負契約には最低入札価格の設定がある。
 その制限は予定価格(これが設計価格、あるいは積算価格ともいう)より65%以上、80%以内とある。これを忘れてサウンドクリエイトは入札に参加。入札業者は三社、途中でカメラの和光が辞退。RABサービスとサウンドクリエイトの二社が応札。結果、サウンドクリエイトは取れなかった。それも一万円の差で。
 入札予定価格書に左欄は消費税込み、右欄が抜き、入札は抜きでやる。サウンドクリエイトは199万円、最低価格が200万。鼻の差で取れなかった。
 それは、この最低価格を失念していたのか、あるいは教育委員会に提出した書類を忘れたか、それとも、メモを取らずに喋ったのか。いずれにせよ、妙な話だ。これが随意ではなく入札になったのは国からの助成金利用だと思う。普通は随意契約が主だ。
 さらにこの設計書で問題視しなければならないのは、鮫の神楽の出演者に涙金しか出ていない点。鮫神楽が出した領収書は十五万円、落札価格は二百三十万。神楽を演じたのは十七名、いかに安い金額で演じさせたかがわかる。
 教育委員会がこうした郷土芸能保存に金を出さず、収録業者に手厚いは癒着だ。人を何だと思っているのだ。神楽をホイト同然に思うから、こうした低料金で人を使う。郷土の宝だという気持ちが欠けている。鮫の神楽の保存には死んだ福島漁業の社長が金を湯水のように注いだ。だから衣装も幕もしっかりしている。
 こうして、見えないところで金を撒く奇特な人がいて、初めて郷土芸能だといえる。ところが、市役所は鼻くそのような銭をくれて鮫神楽の社中を使う。日頃、福島漁業の社長のように銭を出せ。それなら、話もわかるが、人を使うときだけ鼻くそ銭を出すな。だすなら収録業者の金額の三割は出せ。演者なくして収録はできない。本末転倒だ。
 サウンドクリエイトから出たのか、聴取したのか不明だが、出演者には製作雑費として25万を予定。もともと少ないのサ。人を安く使って業者だけが甘い汁を吸おうの図式だ。
 それでも神楽の社中は八戸市のためと思い張り切る。悪ズレしているのヨ、業者も教育委員会も。
 積算価格は262万になっていた。役所の仕組みは複雑だけに、入札最低価格も頭に入れないと安ければ落ちるは短絡、短絡。

2009年4月26日日曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 1

八戸小学校の思い出 岩岡徳兵衛
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
 私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
 ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
 そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
 
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
 何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
 私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
 
ああ、半世紀  北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
 というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
 小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
 なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
 それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
 今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
 八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
 北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)

2009年4月25日土曜日

東奥日報に見る明治三十年の八戸及び八戸人

八戸の馬市と中村熊太郎氏
本年八戸の馬市に於いては出場の馬匹頗る多く価格は一頭平均五円以上にて中々高値の方なる由が数多の馬主の中にあって三戸郡名久井村中村熊太郎氏の馬匹においては逸物多く市中尤も評判なりしという氏は名久井方面にて有数の豪農にして酒造業を兼ね人望なかなかに盛んにして産馬組合に於いては創立の際より委員となり今は郡会議員の職をも帯いる由本年氏の引き出したる馬匹の主なるものを挙げれば退去雑種鹿毛代金百円一回雑種鹿毛代金百五十円退却雑種鹿毛代金百五十円、一回雑種鹿毛代金二百十円、以上四頭は種馬牧場へ買い上げられる四回雑種鹿毛代金百二十一円、初谷某に買い上げられる、二回雑種鹿毛代金三百十円、退却雑種青毛代金二百二十円以上○馬所に買い上げらるる一回雑種青毛代金百九十円、四回雑種青毛代金七十円、純洋種栗毛代金八十円以上三頭は軍馬育成所に買い上げられる等にしてこの以下なお数頭ありし由なるが同氏の馬匹は本年に限らず例年の如しという
三戸町通信
当町に於ける戸数は九百四十八戸人口は四千六百三十八人内士族百一戸平民八百三十七戸にして士族の内男二百五十九人女二百五十二人平民のうち男二千百五十一人女千九百七十五人なり
●当町に於いて本年の徴兵適齢者は三十壱名あり
● 当町大字久慈町二番戸平民菅原直氏は本県第一中学校生にして本年徴兵検査なりしが今般一年志願兵を出願せり
● 三戸病院当直医下山千代吉氏は留崎検梅医を辞したると同院には外一名の当直医あるに何の都合にや過日本郡長より開業医たる山田某に検梅医を任命せりという
● 三戸病院の欠員なるにより今度東京より聘せんとす不日理事者たる栗谷川町長上京する由なり因に記す同院は明治十年以来継続し来るに過般より本郡役所より昨年県令第三十八号により更に設置認可を経ざれば消滅且つ医員の如きは反則なる旨通牒に接し栗谷川町長には郡衙に出頭して従来設置に係るものは前段認可を経ざるも消滅となる理由なき意見を持して陳情せるに第三十八号県達の主意は認可を経ざれば消滅なり且つ其の筋よりも右の次第を申し越せりとのことにて其の手続きを為すなりと一旦帰町せんとするに山本県参事官郡衙に出張せるに際し同参事につき伺い出たるに従来より設置の分は認可手続きを経ざるも消滅せざるの法意なり併し取締上届出でだけは為すべしとのことなりし由前項検梅医の任命も多分役所にて法文誤解の点より取りはかるべしというものあり
● 三戸町の赤痢
三戸町の通信によれば同地にては今回赤痢患者三十名発生し警察及び町役場にて日々厳重に消毒を施行しおれるが右は大抵腸カタルの変症なる由にてこれまでは余り世間に知られざりしも警察にては日々巡査をして戸毎に患者の有無を取り調べしめ施療の医師にも注意したるところ一時に届け出となりて前記の患者を出すにいたれる由之がために町役場にては吏員一同消毒に尽力して朝は六時より晩は六時ころまで執務するが如き俄かに繁忙をきたしおれりと尤も右三十名の患者中二名は全治の旨去る二十七日医師より届け出であれりその他二三名を除くの外は真正の赤痢ならざるべく臥床しおるものはなき由斯く腸カタルの気味あるものは悉く赤痢として取り扱うが故に新患者は却って医師の診断を厭い隠蔽するが如き有様なれば世間の浮評もとりどりにて隣郡福岡地方においては三戸町は町内過般赤痢に悩まされ交通遮断しおるなど噂しおる為用事のありたる者も見合わせるがごとき勢いにて昨今の同町は寂寞たる景況なりという
● 自転車の速力 英国にて進行中の汽車中にある窃盗に追いつき之を捕縛したる巡査あり、今其の方法を聞くに巡査は前進せる汽車に窃盗あるを知るや直ちに自転車に乗り次の停車場に駆けつけ汽車の未だ到着せざる故暫く待ちおり遂に之を捕らえたるなりと其の機敏驚くの外なかるべし
これを読んだ日本人は驚いたろうなア、自転車とは一体、いかなるものだと驚嘆したろうが、何、汽車がのろいだけサ、現今の者なら知悉だが、まだ自転車を見たことのない当時の日本人には驚嘆だったろう。俗に百聞は一見にしかず。まさにこれ。
● 五戸組牡馬競売
五戸組にては本月十日より同十八日まで二歳牡馬競売の景況を聞くに内国種五百三十二頭其の代価二万千二百四十八円七十銭一頭につき平均三十九円、最高三百五十円、最低四円雑種十七頭代価三千六百三円、平均百八十円、最高四百十五円、最低四十二円なるが内軍馬購買に係るものは和種五十七頭雑種九頭にして最高二百十二円、亦奥羽種馬牧場に於いて買い上げたるは和種十三頭、雑種五頭最高二百七十円、最低七十円なりと
● 三戸郡有志大懇談会
政界まさに多事中なりの今日、気骨稜々の政客なんぞ黙して止まるや三戸郡の有志此処に見る所あり去る三日大懇談会を八戸町城西武蔵野軒に開く相会える者県会議員、郡会議員、町村長と土曜会派の有志たち無慮百名ばかり座定まりて先ず時の政治問題につき協議するところあり終わりて直ちに酒宴に移り席上発起人岩山高充氏起て開会の趣旨を述べ次に奈須川光宝氏今の政界に関する氏の所見を開陳、次に坂本●の進氏より痛快なる演説あり其より赤石辰三郎氏は源代議士を始め各地より到着したる祝電を朗読し終わりは献酬となりて酒間胸襟を開き快談をなす
● 八戸商業銀行 過日の紙上に掲載したる八戸町新設の銀行は八戸商業銀行として出願したる由重役の予選については二派に分かれて未だ決定せざる由
● 八戸盲人会 三戸郡八戸盲人会はかねて記せし如く設立数年前にあり爾来熱心盲人の教授に接し生徒は他郡よりも来たり居る由なるがこのほど按摩科に卒業生五人針治科にて一人ありしと目下同会の教授を担任しめるは医師中野健隆盲人永洞清吉十日市茂吉岩間某氏にして同会にて教授等に従事しおるものに対しては別に報酬とてもなきことなればいづれ有功章にても寄贈したきことにて会員等思案中なりとここに八戸町豪商加藤万吉氏病死の際同子息より同会に対し功徳の為とし金二円を寄贈し第二尋常中学校教諭斉藤文学士も同会の挙を賛成し在任中毎月金二十銭づつ寄付するなりと定めの如く出金し居り殊勝というべし
● 八戸盲人会の事については過日の紙上にも記するところありしが同会の卒業生は田中作太郎、一戸万次郎、清川丑松、東熊吉、松倉久六、小笠原兼松の六名にして尚同会にては算術及び○学等も教授する由にて其の講師は中里正賢氏なるが同氏は盲人なれども嘗て昌平黌(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校)に遊びたることあり算術は当時の中学校教師位の比にあらざる由階上銀行監査役石岡徳次郎及び武尾徳太郎の両氏も同会の為に尽力しおれりと
● 八戸町の有給助役 同町は従来名誉助役ありしが更に一名の有給助役を置くこととなりこのほど盛岡の某氏推薦せられて来任したる由南部一の都会と呼ばるる八戸町にも助役に適当な土着人無しと見えたり
● 第二回水産博覧会受賞者 
田作 市川村 三浦直哉
   八戸町 川越松五郎
鮑油 小中野村大久保弥三郎
田作 鮫村  深川治郎
干鮑 同   高橋虎之助
端折昆布 同 高清水蔵之助
島田昆布 同 高橋勝太郎
同    同 田中常吉
干ホッキ 八戸町 槻館門蔵
鰯搾粕  同   富岡新十郎
同    同   富岡重三郎
同    同   関野喜四郎
鮑味付け 同   田中常吉
鮪○   同   槻館門蔵
○皮   同   阿部松助
網    同   大岡嘉蔵
釣具   同   富岡新十郎
鰹節 階上村 平戸小助
つのまた 階上村 島守浪雄
○○   同   佐京彦松
ホッキ万牙 港村 長谷川勝次郎
● 八戸の強盗捕縛 本月四日のことなり八戸町において二箇所強盗騒ぎあり一は午前二時頃大字上組町五番戸戸館西松方他は同三時三十分頃大字二十六日町二十六番戸菓子商平田安太郎方にしていずれも忍び入りし強盗は一名なりしが双方とも家族の騒ぎにて近所合壁の知る所となり遂に其の目的を達するを得ざり其の筋にては注進に接するや早くも手○を為して之が逮捕に着手せしも賊はいずれに逃亡せしや跡白波容易に手がかりもなかりけり是より先同町大字上組町十一番戸に立花柾次郎(二十二年)てうあり年に似合わぬ悪漢にしてこれまでも詐欺取財にて一回窃盗にて二回都合三回処分を受け近頃監視規則違反として其の筋の注意を受けたるのみならず其の問題更に詐欺及び窃盗等数罪現れ来たりいよいよ逮捕に着手しおれるものなるが今回の強盗もこのものの仕業なると知られたるより八戸警察署のみならず八戸憲兵屯所にても数名の角袖(これがデカの語源・カクソデの下字のデと上字のカ)を派し種々の手勢を為して熱心に是が逮捕に従事し我こそ其の功を得んとしてあせりしもこの賊は白鞘を懐中しおりて危険のおそれあれば容易に近寄ることならずとの評判あり且つ何処に跡をくらましおるにや更に見当たらずして両日を経過せしが七日に至り賊は小中野遊郭の在りて一夜の春を買いおりしとの噂あり八戸署在勤刑事巡査雑賀重八郎氏は早くも之を聞き込み探偵方々単身にて取り押さえに向かわんとせり署長初め其の危険を注意せしも日ごろ大胆にしてこの道に熟練なる同人なればあえて意にかいせず日暮れごろブラブラ小中野に向かいし(この先破損)身振りにても今時分戻るも怪しや或いは目指す曲者にあらぬかと思わず柾次郎でないかと口走れば果たして曲者柾次郎この声聞くや否や車上より飛び降り肌脱ぐ手も見せず己がはきし足駄をもて雑賀刑事めがけて飛びかかれり柾次郎は大胆不敵の強者腕力にてはもとより数人を敵として屈せぬというもの殊に凶器をさえ携えしおることなれば雑賀刑事も容易ならぬ敵とは知りつつも初めよりより覚悟しおることなれば直にこれに手向かい先ず身をかわして打ちかかる柾次郎に空をうたせながらかねて用意の棍棒を以って心地よく柾次郎の小びんをなぐりて鮮血淋漓たりしも柾次郎は少しも屈せずかえって是までと覚悟しけん益々狂い廻りて抵抗し組み付かれ組み付かれずと争いし雑賀刑事も遂に柾次郎のために組み付かれかくては雑賀刑事も今は危うく見えつつやや暫く争いおるうち柾次郎を乗せ来たりし車夫の注進にて加勢の八重田巡査を初め溝江、岡田の三巡査駆け来たりて暫し争いたる末難なく之を取り押さえたりと言う尤も柾次郎の逮捕せられたるを聞くや同地方にてはいずれも安堵しおる由
● 山崩れ人死す 三戸郡上長苗代村大字根岸山崩れ死亡三人、負傷者数人は三戸町諏訪内出水の為
● 三戸郡水害 三戸郡において最も甚だしい水害に罹災しは小中野村にして同村の浸水家屋は三百七十戸新町は三尺位に過ぎさりしと雖も浦町すなわち遊郭地の如きは床上の浸水五尺以上に達したれば二階のあるところは家具を二階に持ち運び二階なきものは屋根に取り運ぶなどなかなかの騒ぎにてありしが郡吏役場事務員巡査等は舟筏に乗りて二階或いは屋上におる老若男女の救護に尽力し又一方はまさに流失せんず有様なるを以って消防夫等は専心之が防衛に従事したるため幸いに流失を免れるを得たりその他各村とも浸水家屋多く是川村部内の如きは○を流失したるもの十戸以上もありし由なれども家屋の流失せしものなきは不幸中の幸いとや言うべき小中野の罹災者へは八戸町の主だちより炊き出しを給与したりという
馬淵川は以前の洪水より七尺位水量は少なき方なりしも各小川は一尺五寸も増水したり
農作物は過般再○の洪水に罹りたれどもその後天候順に帰したる為其の景況至って宜しく今後一週間位もこの天気続きたれば稲作の如きは昨年に比して五割以上の増収あるべしと農家一般に喜びおりたるところなんぞ図らん去る月二十八日の暴風にて二十九日洪水となりて川岸近傍の田畑は大河と帰したることとなれば五割どころか翌年の籾さえ獲ることあたわざる所も数多あるべく今尚浸水か所ありしという

2009年4月24日金曜日

小中野小学校百年史から 2

小中野の昔を語る
出席者 月館宇右衛門 明治四十二年卒
稲葉米二郎  明治四十三年卒
夏堀正三   明治四十五年卒
佐々木哲夫  大正二年卒
大久保弥三郎 大正九年卒
山浦武夫   大正九年卒
石橋俊男   PTA会長
山内清栄   学校長
司会 木村昌平
記録 小笠原五百子
三船テル
会長 雨の中をご苦労様でした。百周年記念事業としまして記念誌を編纂することになり、その中に大先輩の方々の座談会を設けています。よろしくお願いします。
司会 出席者は病気療養中の音喜多富寿先生をのぞいてきょうお集りの方々です。他に職員の部と九十周年の時の未記載の座談会記録ものせた  いと思いますので重複しないような内容にしたいと思います。
小中野町の変遷
開校当時 生徒百人 先生三人
司会 九十周年座談会の第一集を読みましたら、学校のあった折本という場所は麦畑であったとか、ホイド宿があったとありますが昔の小中野の町についてお話しください。
大久保 折本にはいつできたのでしたか?
会長 明治二十三年です。
大久保 その当時は、うちの祖父が村長をしていたようですが、学校が火鉢を欲しいと頼んだらなべかままでつくってくれたといった話があります。文献がないのでぱっきりとしたことはわかりませんが、祖父はたしか一代目の村長でないかと思います。二代目は和田さん、三代目は川村さんでそれから中村さん、山浦さんとなるのではないでしょうか。
大久保 小学校が折本の前、どこにあったか確認   しておく必要がありますね。
会長 初めのあたりは、だいぶ校名が変っているようです。
校長 初めは新堀に湊小学校としてできたとあります。
会長 明治九年が創立と沿革誌にのっています。でも山浦さんのところから明治八年という辞令がでているそうですが…。
山浦 明治八年十二月二十八日づけで県から辞令がでています。五等教員に命ずるとありますから開校準備委員みたいなものではありませんか。
山浦 その頃あった私塾三つを統合して学校をたてたのではないでしょうか?
夏堀 辞令がでたのは学校ができてからのはず、湊小の沿革誌を調べてみては。
会長 その当時は三つの方面から生徒が集まり百名で教員は三名とありますね。
山浦 創立のころの教員は、山浦、浪打、一戸の三氏であったようでしたが、浪打さんは修験者で   もあったようですね。
大久保 明治十年頃、小中野に諏訪という神社があるのに川向うの御前神社が氏神様になったんですね。
会長 それではいつ頃諏訪神社がでぎたのですか。
大久保 建武の中興の頃のもの、昔から残っている神社とは、八戸とか小中野で湊は植民地であったし、町も小中野の方からの人のより集まりで湊より大きかったそうです。
大久保 昔の水産学校は下条にあったらしい。
山浦 下条にあった学校ぱアワジ屋さんだったらしい。
稲葉 水産学校は角万のあたりにあった。寺坂のわきの金物星アワ忠、十王院のあたりに吉田アワ大がありました。
夏掘 小中野は変遷がはげしいということは社会増でありまた、人口増であると思います。
  繁華街は北横町新堀、新堀川と湊駅
司会 その当時あった大きな建物や、中心地はどうでしたか。
大久保 まんよう亭で、これは一番大きな料亭でした。その頃そんな料理屋は五十二軒ありました。小中野は物資の集散地で繁華街は北横町、新堀でした。今の中村医院の横に新堀川があり、普代方面から木炭などを舟に積んで中田さんあたりにあった船着き場におろしそこから湊駅にもっていったもので線路の向うは家がなかったんです。湊駅の発展は、小中野の発展に大切な要素となったもので、またそれら多くの人の出入りで、花柳界は栄えました。
月宇 今の新堀の道路になっているところが新堀川でしたね。川を埋めたてて道路にしたのです。
大久保 ゴンスケやのあたり、マルキチの中田加工場の付近は船着き場でした。あそこから湊駅へ行ったのです。
山浦 林業も盛んでした。小中野の歴史を考えるに湊駅をぬきにはできませんね。
司会 湊駅の開設、新堀川が小中野町の発展のみなもとであったわけですね。
木材の集散 新井田川のイカダ流し
大久保 昔の橋は寺坂からまっすぐあった。まるたに土をかけた土橋で津波かなにかでかけかえた。また新井田川上流からイカダで井上石灰のあたりにあげていた。秋木の支店もあった。小さい頃はその木の上を飛び歩いて遊んでいたものです。木材も小中野の発展のもとに考えられます。冬は川をかね下駄で走ったものです。欄干から川へ飛び下りたこともありましたな。昔は新井田川は飲みたいぐらいきれいだった。橋の下でうなぎとりをした経験もありますよ。
会長 つい十数年前までうなぎが取れましたね。                 
夏場 川にそって発展したのですが物資の集散だけでなく、米穀なども江戸に出していたのでは…。
山浦 当時は学校について考えても湊には高等科がなかったから、湊の人たちはみな小中野へ集って来たものですよ。
小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
○小中野人の気質、御家中に対する反骨精神
司会 小中野人の気質についてお話し願います。
大久保 成績も1、2、けんかをしてもI、2、クラブのキャプテンも小中野勢がしめていた。スポーツでも、学業でもよい成績をあげたのは、沢山の先輩が教育し、阿部のそば屋などで飲み食わせたり、先輩が先生であったり、学校が家なのか、家が学校であるのかというような生活から生まれたと思う。
稲葉 そのころ肩じるしというものがあって、1年は赤、2年は橙、3年は青、4年は黄でした。
夏堀 新興気風のあったことは、小中野は八戸から見ると漁師町、またご用商人の町であった。そのため八戸から見下げられていたので、絶対敗けられぬという反骨精神が原動力となった。今でもその流れはあり、小中野というとキカンボにみられる。上級学校入学も小中野はよかったものです。湊学友会はすごく優秀でそれに対抗して八戸でもつくったが小中野には及ばなかったんです。
大久保 亀徳さん、浪打亀次郎さんともにキリスト教徒です。明治末期にかけてこの道に入ったというのも小中野の気質のモーメントですよ。大正年間アメリカヘ行くのにも大低の人は、亀徳さんから指導を受けたものです。
会長 亀徳さんというのは、元立教大学総長松下正寿さんの生まれ家ですね。上番町にいく前には新丁にいましたね。
大久保 同級会を開けば芸者が何人も来る。それは同級生にあるから…そのため落第させられたものもある。
司会 高等科になるとかけもちの人があったそうですね。そして首のあたりにお白粉をつけ残したまま登校したとか。
佐々木 芸者の修練はきびしく、今はその修練に堪ええないでしょうね。

小中野出身で活躍した方、している方
枚挙にいとまなしの観
司会 小中野の出身の方で各界に活躍なされた方、現在活躍していられる人についてお話し下さい。
夏掘 三吉という同級生の芸者があったが大阪で出げいこをして十万円もらうそうだ。幾千代の養子はステンレスの工場を経営している。
会長 花柳会を話さなければ、小中野は話されないわけですね。月館さんの娘さんに有名な画家がありますね。
校長 学校にも絵があります。現在も中央画壇で大活躍ですよ。
佐々木 八戸のデパートの元祖は小中野でツキウが第一号ですよ。月館さんはかれこれ商人の道七十年です。ちょっとちがいますが漁民道場のはじまりも小中野です。修練所といって場尻にありました。
夏掘 押田吾有、毎日新聞の社長、人事官もやった神田重雄市長の弟さんです。
月舘 先代の上野学院長の石橋蔵五郎さんも。
校長 校歌の作曲家です。
夏椙 大関中五郎さんは地質学者でした。亀徳さんも船問屋で、幕末の頃にも海産物問屋をやりながらアメリカで教師をした人があるはずです。佐藤亮一、共立大学教授で慶応の講師。木村専太郎、京大出身の工学士、藤尾感之助、小樽高商を経て東北電気重役、木村直治、関西学院卒剣道の先生、東京絹糸株式会社社長で小児マヒで死亡しました。梅沢幸一は、歌人で若くして死亡されました。くめ八ねえさんは八戸小唄を吹きこんでいる。
会長 下田栄子、中央で舞踊家として活躍玉振バレーの山浦さんの姉さんも活躍している。
大火、津波等 左比代まで水びたし、
浦町は船で…
司会 災害についてお話してください。
月舘 三陸津波の明治二十九年は大きかった。今の和光旅館はホイド宿の跡ですが、そのホイド宿  の二本杉まで水が来た。そして家を二本杉につないだものです。明治四十三年にも水害があり、そのため堤防を築いた。左比代まで水があがり浦町舟で歩いたものです。 
佐々木 小島横町にいましたが家の床より二尺ぐらいあがった。堤防は昭和二年につくられました。
夏掘 小松屋のあたりは、二年位沼であったですね。堤防を築いたのは山浦市長ですね。
山浦 湊より土地が低く日の出屋のあたりまで水がたまりました。
司会 小中野やけといって大火が何回もあったそうですね。
月舘 小中野の大火は新堀からおきている。しかし幾度の災害にもめげずによくがんばってきたものです。
司会 それではこのへんで座談会を終りたい
と思います。ありがとうございました。

2009年4月23日木曜日

昭和二年八戸税務署所得金額調査書

八戸町
石橋源三郎 2642
   五郎  527
石橋冨士保13469
  あさ   143
伊智    31
昌平    27
昭和二年八戸税務署所得金額調査書石橋要吉  3260
石橋幾代  3265
石橋甚三郎 1951
石橋徳右衛門1468
石橋禎助  1603
石橋忠一  1210
石鉢文三郎 1602
石村春松  5462
石村三之助 1788
石岡万吉    88
  なか  5270
  佐蔵  1467
泉山吉兵衛47591
  千代吉 4276
  岩次郎16820
泉山和三郎 1786
泉山松三郎 1973
  みや   129
  正太郎  643
  慶三   657
泉山儀助  2149
泉山忠蔵  2733
泉山惣治  3346
 佑一郎   961
泉山太三郎  216
  善七  2407
泉山亀之助 1081
  寿之助  341
泉山新太郎 1399
岩岡常蔵  6140
 治六     86
岩岡徳兵衛 1323
岩舘作兵衛 5592
 タマ     67
  泰三   447
岩泉亀松   920
  タキ   470
岩岡範     14
  スエ  1340
岩崎恒哉  3842
伊藤富三郎 2751
 芳助     24
伊勢崎亥八郎1754
伊藤恒雄  1306
今淵正苗  9336
今淵正太郎22574
稲葉万雄  1014
  寿喜   318
稲葉正馨   733
 正美     60
  ナカ   459
市川定盛  4590
江口喜三郎 1985
石橋徳蔵  1308
伊藤正純  1328
板橋吉蔵  1000
  テツ   400
市川徳次郎 1272
板橋民助  1549
石木田勇太郎1200
橋本磯吉  1725
橋本和吉 13071
橋本友吉  2990
橋本源蔵  7964 
 喜吉     98
橋本貞助  3720
橋本八衛門53246
橋本磯五郎 2164
橋本鉄蔵  1632
橋本徳松  1791
林市太郎 16224
  直蔵   126
林崎為蔵  1244
  タマ   720
正雄   583
長谷春松  6103
萩野三平   500
  ナカ  1120
  利吉   116
花田実   1697
西川銀三郎 1342
  亀次郎 7702
西久保亀五郎 904
西久保政寿 1032
西村春秋  1523
  育三   486
西村龍雄   400
  重三郎 1104
西村幸助   679
  源一郎  848
西村喜助  3757
  ナミ    20
西塚民次郎 3882
二宮中輔  1342
仁科礼三郎 1504
  うの   160
星三蔵   5474
本間吾市  3257
蛇口邦雄   624
  トモ   476
  得政   503
逸見鶴亀  1250
富岡新太郎 5176
  富松   678
富岡重三郎 5137
  秀太郎   76
富岡宗助  1455
遠山景雄  4627
豊山逸機  9966
  たけ    14
  ひさ  1040
  静邇    27
栃内八太郎  305
栃内純一郎  560
  稲男   478
  真三郎  659
苫米地岩次 1550
苫米地福蔵 1360
豊巻亀太郎 1312
千葉得寿  1336
地代所新蔵 2115
沼田嘉蔵  2659
沼館友治郎  660
  義郎   556
類家要助   215
  市太郎 1200
類家千松  1819
小笠原夢助 1379
小笠原慶蔵 8807
   たね  105
  幸次郎   72
小笠原治  1368
小山田義郎 5411
   なか  109
小山田寛  1218
大野一作  2244
大橋豊次郎  189
  吉次郎  599
  てる   500
大橋勝三郎 3088
  久治   155
大橋兼八  3140
  とめ   478
大橋孝一    14
大橋酉松  1210
大橋菊松  2637
大橋豊吉  1807
大久保又吉 1837
大久保平蔵23866
大久保千尋 5454
   たか  165
大久保キミ 4326
大久保浅吉  941
   岩次郎 379
大久保幸太郎1500
大岡嘉蔵 10578
大南○亮  1316
太田康○   710
  ふで   569
及川ハルエ 4181
奥秋確   4188
奥寺悦郎   300
  サダ  2105
於本重義  1242
及川恒広  3469
及川万治  1202
岡田八弥  1201
大沢蔵松  1202
大里雷太郎 2850
岡建寿   1999
大久保万之助1426
大橋浅五郎 1811
和田トヨ  3152
和井田喜一郎7499
若松タキ  1567
渡辺武雄  2019
亘理杏造  1365
渡辺嘉幸  1678
神田吉穂   744
加藤末次郎 4805
加藤庄五郎 1764
 リツ     72
加藤善次郎 5828
 なか     11
 やえ     15
鴨沢熊太郎 1540
鴨沢直次郎 1225
金入文吉 15885
  正七   170
 義三郎    16
 もと     83
金子安兵衛 2620
金田文助  2922
  堅次郎  512
金田鉄三郎 4012
金沢慶蔵  3270
  新太郎  180
金沢敏雄士 1300
風張酉松  1326
 みつ     42
河野市兵衛 1339
加藤彦四郎 2656
川勝要一  2205
加藤勝男  3182
  義夫   394
金沢篤   1250
神山不二  1500
吉田万衛門 3412
吉田昌平  3181
  トミ   683
  ふち   503
横沢新太郎21033
 信夫    600
種市良一  5469
 良貞   2740
種市精一  2931
高屋敷与五郎4225
  とめ    95
  いし   107
  スエ   109
高橋政美  1851
高崎寿   1453
立原伊八  2971
  たけ   260
  ちな  1500
高橋久次郎  563
  幾久三  673
高村吉郎  2462
高島清助  1701
高橋保次郎 1262
槻館門蔵  5361
  せき    28
槻舘幸吉   164
月館弥八  1379
月館弥七  1910
根市茂吉  1201
根城松太郎 3430
根城とわ  1837
  いし   616
  次郎   140
根城藤太郎 1164
  繁吉   180
成田昌治  9229
南部直道 11717
南部四郎  1484
 トモ     91
南部利克 11094
楢舘弥三郎27924
 貞次郎    44
 秀太     12
正一郎     12
 ひで     12
 こう     12
 よね     12
楢舘要四郎 5721
 ナカ     13
中村福松  3222
  福蔵   144
 むら     23
中村秀三  5846
内藤勝   2452
中島梅吉  2408
中島平助  2640
中島末吉  1279
中里好幸  1248
長瀬虎五郎 2074
  直蔵   500
夏坂与吉  1825
中居仁太郎 1019
  よし   234
中島陽三  1844
七尾徳蔵  1400
村井善蔵  5817
村井亦八  2558
  善七  1259
室岡千里  1332
村上重吉   921
  きえ   460
村上新八郎 1820
村田大作  3250
村本ソメ  1580
植村彦太郎 5429
漆沢昇   1802
牛島万吉  3460
  源三郎  139
内田辰五郎 2139
内山正尚  1480
 圭吾     14
浦山政吉  1224
内野義太郎 1523
梅原徳治  2989
上野右衛門太 735
  元太郎  465
後村三郎  1718
上口安太郎  480
  リヤ   880
  キミ   346
牛島源五郎 1395
工藤新助  9039
工藤辰四郎 2196
工藤安之助 1669
桑原林蔵  1500
久慈憲吉  1563
久慈政勝  2285
工藤利蔵  1201
国香直治  3000
久慈恭一郎 1250
山田文次郎18972
山田文左衛門 336
山本勝次郎15120
  栄助  3681
山本武次郎 1681
柳川保蔵   886
  ちとせ  420
山本勇次郎 1560
山岸柳蔵  1681
蒔田茂穂  1272
蒔田増蔵  1953
松原富男  9418
松原季男   207
  邦也  2038
松橋宗吉  9947
  イシ 1074
松井要三郎  146
嘉蔵    812
 ふさ    444
松舘徳次郎 1743
松村房吉  1312
前田弓矢  1196
 利見    288
牧野熊太郎 4626
 十一郎   300
前原寅吉  1350
松橋繁蔵  2250
福田大助  1210
  寛   1119
 進     201
福田祐義 37113
福井富治  2482
福井留次郎 2694
吉平      51福田三男   583
ふみ      62
  ふめ  1471
古館東次郎 1601
古川広淳  2566
船越香織  4255
藤田末蔵  430
藤田英一   317
愛次郎   4540
武藤三五郎 3024
昆野清一  1236
せつ      14
昆正三郎   376
さた   189
 直次郎   423
正太郎   376
近藤元太郎 8633
  元二  3960
近藤重治  1784
近藤喜衛   858
  てい   528
近田新九郎 1200
木幡清風  1398
小瀬川真太郎3521
  マツ    18
   チヨ  105
宗吉 2000
小森常吉  1224
小瀬川友三郎4278
  勝太郎   37
小島弥八  3551
  忠蔵   190
小舘吉三郎 1340
小森只蔵  1670
駒嶺賢治  1244
  ちさ   639
  みつ江  432
  泰    240
天摩由太郎 8113
 はる     71
寺井親    735
  ミネ   645
浅水まつ   515
 むめ    391
 航三    564
浅沼堤   2500
キチ      30
阿部正治  3392
宗三      55
良三     584
阿部真之介 4262
いと      40
はな      15
八太郎     12
安藤善太郎 2348
青村善太郎 1804
赤沢健蔵  2035
佐野川菊次郎1358
佐藤常吉   912
孝吉    88
信吉   239
佐藤源太郎  500
  源次郎  725
坂本源兵衛 5949
  源三郎  125
坂本末吉  1180
  イネ    39
嵯峨倉吉  1725
斉藤大次郎   73
  佐助  1294
斉藤信雄   114
秀丸   484
哲四郎  276
銈三郎  421
斉藤芳次郎 2496
笹森孫五郎 1073
  イク   490
木村秀   4612
 ヤス     14
木村芳美  1142
  和歌   960
木村源吉  3199
  ツネ   155
 源一郎    12
北村益  17617
北村石太郎 1397
 宗      14
北村久蔵   768
  久次郎  625
菊地直七  1290
亀徳しづ  1200
三田藤吉  1500
清川佐太郎 1611
菊地武雄  2600
女鹿左織  1396
三井惣助  8165
三上権次郎 2067
 トキ     21
三浦万吉 22375
 荘介     67
  喜七   453
 孝吉     73
三浦啓佐  1217
三浦庄七  1795
三浦甚三郎 1491
宮沢万次郎 3500
正部家鉄三郎2369
   くま  255
   二郎  721
満三  317
正部家誠   720
 千代    520
下斗米多嘉吉2526
   直吉   29
下斗米謹八 4161
下斗米石太郎4307
下斗米嘉之 2274
志賀十二  1510
四戸貞弥   500
  正利   513
  てる   508
猪内文弥   258
清一   724
ツネ   392
広沢安宅  3567
  朝平   444
平野八重子 1536
森平一郎  2000
関野重三郎 1926
接待利紀   505
寛   1061
てる   399
接待一治  1208
接待麻雄  2346
関春茂   1290
鈴木吉十郎22041
  吉太郎 3068
鈴木孝太郎  177
  正春  1210
 トミ     54
 文雄     60
鈴木昌実  3334
鈴木正一郎 1507
鈴木通孝  1279
鈴木吉次郎 1403
鈴木安言  2025
杉本吉太郎 4507
  きさ   429
  よし   216
角谷市松  2481
田村欣造印刷 540
八田セン販売 400
福井政次郎販売490
中居徳太郎販売700
加藤善之丞販売820
古川菊太郎販売450
高橋菊次郎販売510
根城亀之助販売540
島守専之丞販売610
北村金四郎販売720
根城政次郎販売610
西館宗次郎販売510
中島きわ販売 580
荒井三郎販売 400
藤本長寿郎販売400
工藤正三郎販売400
藤井徳次郎  640
柴田吉蔵   400
山田徳次郎  800
田名部竹松  770
松橋健蔵   510
村井兼八   400
柴田幸三   400
高橋長次郎 1180
石橋雄太郎 1000
沢田弘司   800
高橋孫四郎  450
村井吟次郎  560
金田徳蔵   420
浦山邦二写真 480
広瀬石太郎 1050
中村かく   400
金沢礼次郎  450
八田宇吉   930
福井年三   900
関野郁郎   950
高島福次郎  64
三井フチ    75
井上贅    450
工藤久兵衛  400
中村せき   880
市川苗吉   445
中村権次郎  404
根城鶴松  1000
福井常治  1390
岩織又吉  1100
立花熊吉   630
最上光男   700
近藤かつ   580
新渡戸巌   610
竹沢兼太郎  400
三浦幸市   400
石橋友吉   400
石橋仁太   400
村上源次郎  940
藤原福蔵   720
松橋倉吉   440
奥村隆吉   440
鴨沢喜助   710
松井鉄蔵   600
宮本善三郎  420
内藤豊五郎  494
田名部定雄  420
蛭子由松   723
松橋いし   680
岩淵栄助運送 420
高橋元吉   420
阿部金次郎  490
村上孫四郎  450
中奥市太郎  450
村上五兵衛  550
松館兼松   410
岩淵麻五郎  590
近藤喜太郎  400
木村慶治   600
牧野豊吉   830
浅野吉三郎  540
大橋福蔵   420
上斗米専治  700
村井文次郎  400
江刺時次郎  400
佐藤松次郎  500
志村丈之助  720
軽米福太郎  420
福井喜作   600
志村栄一   440
西村徳助   800
荒谷タマ   450
高橋万吉   400
大向重兵衛  500
畑内太郎   580
金浜福松   400
塚原豊八   400
野里サキ   410
三浦茂一   530
澤藤長吉   560
関野三吉   500
石橋修吉旅人宿710
菊地清一   480
沼館周太郎  500
木村文吉   400
橋本覚三運送 450
滝川チカ   460
千葉しめ料理店583
小山晋之助  440
中島晋吉   830
福田直太郎  520
戸田みき   400
久保田晋之助 420
大山富助   640

2009年4月22日水曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から 続

したがって相互の生活経済面で、競合する物がない。また両地区にまたがる浜川は物資集散の動脈となって、共通のミナトをなしている。
 これが学友会に「湊」を称させた起因ではなかろうか。ところで前記の明治二十三年は、青森県に初めて地方制度実施令が公布された年でもある。この政令のねらいは多方面にわたるが、いまこれを教育行政面だけにしぼれば、末端の学区を整備する事によって「教育の地方分権をはかる」というにあった。が、この本音は、その建前とは大分ちがう。すなわち後前の学制を実施する段階で、もうこれ以上の財政負担には耐えない、という所まで逼迫していた。そこでオタメゴカシの「教育の町村自治」というゲタを地方にあずけよう、というのである。その結果が三小区の盛湊校を小中野尋常小学校(左比代)とし、また新しく湊を四小区に定め、下条の簡易小学を湊尋常小学校(むつみなと)としたのである。
 そして、そこを巣立った俊英たちが、開校まもない尋中八戸分校の難関を越え、やがて湊学友会に拠って、浜のルネッサンスを展開する。
学友会の胎動
 さて、ここで尋中八戸分校と、それから派生する校外団体について略述しておこう。まず、この分校は明治二十六年七月に設置され、その修業年限は一二ケ年だったが、幸運にも明治二十九年に五年課程の独立校に昇格、青森県第二尋常中学校 となった。つまり俗称、県立二中だ。
 そしてこの二中が、当時、県南で唯ひとつの最高学府なので、人呼んで南部の帝大といった。が、実は腕をためそうにも相手がないので、まずはお山の大将だ。だから湊学友会を筆頭に上北の上南会、三戸の郷友会、五戸の北嶺会などが続出して、技をきそいあったわけである。
 なお、これら諸団体中、特筆に価いするのは八戸学生団であるが、その出現はおそく大正四年、すでに各地に県立校が設置されたため、二中校外団体存続の意義は、ようやくうすれた頃であった。
 さて、ここで筆を元にもどせば、湊学友会では、最初の会員を音喜多政治(富寿の父)と神田品次(ただじ・重雄の次第)の二人としている。
 したがって学友会の結成時には、この二人は三年生、浪打石丸が二年生、山浦武夫(先代)が一年生である。はたしてしからば、当時この人たちに上級生会員がなかったかと言えば、実は四年級に山田誠、五年級に宗元苗 (そお・もとたね)がいたのである。そこでまず山田だが、かれはもともと神田、山浦、上田とは縁続きの会津衆である。そして当時、田名部の生家を離れ、湊下条の小林家から八戸の中学校にかよっていたのは、絶家寸前にある小林の名跡をつぐためだった。ところが山田は、なぜか「白盛社」という団体づくりに夢中である。ちなみにこの白盛社は、多分に飯盛山の白虎隊にあやかるものだが、かれはいささか図にのって三戸、五戸、三本木方面まで間口をひろげ、結局、竜頭蛇尾おわる。が、この不屈の オルガナイザー山田は、性こりもなく今度は、白盛社と同工の湊精進団というものに手を染める。されば従来この精進団をもって学友会の前身とする説は、一概にうがちすぎの論とは言えない。なお山田は、その後、東京高商(現商大)を経て米スタクトン神学校を卒業、牧師として在外活動に当ること二十数年、一時帰国したのが関東大震災の年である。そして心友・植村正久、賀川豊彦らと行動をともにするが、昭和二十五年、七十三才をもって神に召された。ついでながら学友会の外様(とざま)会員として鳴らした山田(のち小林)陸典雄は、その甥であり養嗣子でもある。さて、次の宗元苗については、いまさら詳述するまでもなく、八戸中学第一回生であり、かつ同窓中、最初の八中校長になった人である。また、この人を身近な所で知るために、あえて美濃部洋子の父、と附記しておこう。
そして、さらに宗を偲ぶために、かれの従兄で地質学者として高名だった大関久五郎の略歴を添えよう。大関は館村売市のひと。青森師範学校を卒えて湊小学校の教師となり、ついで東京高等師範学院(現教育大)に進み、同校卒業後、千葉県立安房中学教諭。のち東京高師教授に迎えられ、ドイツのフリードリッヒ・ウイルヘルム大留学、文部省視学官となる。その間、地学における未開の分野を科学的に体系づけながら、瞠目(どうもく・驚いたり感心したりして目をみはること)すべき幾多の著述を世におくる。
 大正七年、北海道講演旅行中、折からのスペイン風邪に感染、四十四才でこの世を去る。
 筆を宗元苗にもどせば、それからたどる宗の前半生は、そっくりそのまま大関の前半生である。つまり大関が安房中学教諭から高師教授になっ たとき、宗がそのあとがまに坐るところまで、同じ路線だ。だから宗は、その敬仰(けいぎょう・うやまいたっとぶこと。)する従兄の中に、人間の理想像を見いだしていたであろう。そう言えば宗は、大杉平に回帰するころすでに旧制高校教授の資格をえていた。それが母校の校長におさまると、そこに痛恨の後半生が彼を待っていたのである。が、ここでは、もっぱら宗と学友会の出あいを探求することにする。
 さて宗元苗が、母校の校長になったのは、やがて関東大震災に見舞われようという大正十二年四月。母校の創立三十周年にあたる年であった。また翌十三年は八戸大火の年であり、かつ学友会、三十周年式典の行われた年でもある。いまこの年を対比すれば、学文会の誕生は明治二十九年以前、ということになる。この点につき、さきに宗が五年生、山浦が一年生の時と書いたが、この推定もあてにはならない。
 というのは、宗たち第一回入学者八十四名が、そのまま一年級を編成したわけでなく、この中の三十六名が再試験の結果、二年級を編成しているからだ。つまり宗は、五ケ年の修業年限を三年数ケ月ですませ、すでに湊小学校の先生さまになっていたわけだ。なお、この速成組三十六名は、その間きびしいフルイにかけられ、まともに卒業したのは十名にすぎない。だから宗元苗や山田誠は、郷党(きょうとう・郷里)の仰ぎ見るエリートであり、学友会の誇るべき先輩だったであろう。
群像と人脈
 さて従来、小中野で石橋姓を名のる人びとは、おおむね与兵衛屋一族であろう。たとえば石橋蔵五郎、石橋道麿、松や旅館の石橋宇吉、かつての料亭「万葉」などである。また、その連枝(れんし・枝をつらね本を同じくする意)兄弟。特に貴人にいう)である夏堀悌二郎が八戸市長、その弟正三が小田原助役、石橋宇吉が八戸市収入役とあれば、まさに学友会ならではの三役そろいぶみである。さらに前記、宗元苗は、この一族とは血脈のつなかりをもつ人だ。そして、これに類似の関係は、のちの神田市長、久保節助役、山浦武夫県議の場合にも見られる。また山浦の場合に父系において松岡正男(羽仁もと子の弟、八中二回生)とは緑辺(えんぺん・婚姻による縁続きの間柄。親族。縁故のある人)につらなり、とくに生徒学生時代の交友が密である。おそらく当年(とうねん・その頃。その時代)の山浦は、のちに松岡が日本有数の新聞人となり、またラグビーの草分けとうたわれる姿を、想っても見なかったであろう。またこれとは別に、かつての国立第百五十銀行頭取・富岡新十郎の外孫が、ほかならぬ学友会の音喜多富寿である。
 なおこの富岡頭取は育英事業にも熱心で、野田正太郎らの英才を世に出したが、その最後の給費生は、宗元苗である。また富岡のもとで銀行支配人をつとめた野崎和治の実弟登太郎は、のち松岡家に入夫して、羽仁もと子、松岡正男の父となった。この幾重にも織りなす人間模様の出来不出来はさておき、ここで小中野女の才気を知るに格好な逸話を示したい。たぶんこの話は、富岡が銀行の危機をのりきるために安田善次郎に救援を求めた時のことであろう.行きつけの万葉亭で、大事な客だから「山海の珍味でもてなせ。カネに糸目はつけない」と富岡が女将に申しつけた。
そのせいかこの会談がうまく運び、さて勘定ということになった。が、その法外な請求額に、さすがの富岡も目をまるくした。なんと一家が、らくらく一ケ月は暮らせようという金額だ。そこで富岡が事の次第を女将に聞くと、且那さんがケッパレというので「タキギがわりに三味線の棹だけ焚いたので、こう高くつきあんした」と答えた、というのである。そして、このような才気が、男性にのりうつると「学友会の三太郎」のようなタイプになる。この三太郎は木村千太郎、室岡政太郎、浪打季太郎で、かれらのたどった途は、それぞれ異なるが、才気縦横という点では同型である。このうち木村については、歌人・靄村の長兄であり、かつ奇行の人として書き古されているので筆をはぶくが、室岡と浪打は自分を韜晦(とうかい・自分の才能・地位などをつつみかくすこと。形跡をくらましかくすこと)するような生活態度だっただけに、この際、略伝程度ながら書き残したい。
そこでまず室岡だが、かれは写真に見るとおり、八戸中学、旧制第二高、東大を通して三浦一雄(のも農林大臣)夏場悌二郎たちとは友人である。
 まだその姓字でも判るように、小中野の室岡医院とは同族であり、八戸市庁在勤の室岡一の父でもある。さらに渋民小学校の啄木と心のふれあった稲田ひで子の従兄でもある。
それはさておき室岡は、東大法学部、九大工学部の双方を卒業したので、どの職場でも引く手あまたのはずだが、なぜか浪々(ろうろう・さまよい歩くさま。さすらうさま)孤高(ここう・ひとりかけはなれて高い境地にいること。ひとり超然としていること)の青年期を送る。が、やがて川村竹洽(青森県知事・台湾総督)の知遇をえてからは、そのフトコロ刀となって敏腕をふるった。一例をいえば関東大震災時に台湾ヒノキを移出して東京復興に寄与し、あるいは綿花の移出によって本土の綿布需要に応える等、やることがでかい。それが官を辞して帰郷すると、あえて市井の無名に甘んじ、隠士のような生涯をおわる。なお彼の弟が省三、妹が松岡きく子なので、そのつながりは、川村竹治夫人の川村女学院、松岡洋子、羽仁説子に及ぶわけである。
 さて次の浪打季太郎については、現在のところ、まぽろしの人物である。が、わずかに知られている点は、若くして名古屋の特殊学校教師になったことである。この学校は、徳川政権のいわれない圧制で長く人間あつかいされなかった平人(のち新平民)の教育施設である。つまり今の同和運動の原形であり、八戸の類家堤におけるカンタロウ部落の解放、といっていいだろう。また、八戸におけるカンタロウの悲話が、大正中期まで小説または芝居に仕組まれ、子女の紅涙をさそったが、浪打の進路は、あるいはこれらの稗史(はいし・昔、中国で稗官はいかんが集めて記録した民間の物語。転じて、広く小説をいう)演劇によって方向づけられたのではなかろうか。
学友会の本領
学友会の本領とするのは、水泳と野球であった。泳法の習得は今ではプールだが、もとは海岸である。そういう地の利もあり、ことに水府流の浪打石丸を師範にいただく学友会は、水泳におけるメッカであった。もっとも、その泳法はあくまでも古式の実用流なので、湊川口から蕪島までの遠泳をハイライトとする物であった。が、この例会には、きまって旧藩主が臨席された所からみても、浜通最大の催しであった。ところが大正十二年、時の八中校長宗元苗が、後輩の高師選手をコーチに迎え、初めてクロール泳法を導入した。
 この新式泳法を体得した学友会の椛沢幸一・波打浩・鈴木弘道らは、やがてその名声を東北一円にとどろかすことになる。
 次に野球については、早大生時代の山浦武夫がこれを導入し、慶大野球部員・石橋道麿が習熟させたとされる。が、これよりさき、野球史にも名をとどめるょうな有名選手が、八戸中学のコーチをしているので、むしろ長く郷里にとどまり、その間の状景に接している大久保弥三郎(先代)あたりが、学友会野球の主軸をなしたように思う。なお参考までに、明治三十八年代の八中野球部選手をあげれば、註記のとおりであるが、この顔ぶれがさかんに四部試合(柔・剣‘野球・庭球)をかけもちで他校にいどんでいる。
 したがって、柔道の御大が竹刀をっふりかざして惨敗したり、テニスの神さまがグローブ片手にエラーの続出、という場面もある。
ま、ここまでは笑ってすまされるが、この背後に容易ならぬ事態が待ちかまえていたのである。
武田知事の禁止令
 とかく試合は、クロスゲームになればなるほど面白い物だが、それがエキサイトすると、あとは言わずもがなの乱斗になる。これを県史に求めれば「明治三十八年、時の武田千代三郎知事が、県下中等学校の対校試合を禁止したので、学校スポーッは漸次おとろえたが、各地で倶楽部を組織し、素人先輩を加えて試合を行い…」となる。この点、八戸中学も例外ではなく、ために校外団体である学友会が、思わぬ人気を博したわけである。それにしても武田知事の禁止令はちと俯におちない。というのは、すでに武田は、一地方長官としてよりは、むしろ日本体育協会の生みの親として有名なはずである。すなわち彼は、その大学予備門(旧第一高)時代の盟友(めいゆう・ちかいあった友。同志)岸清一とともに、英人教師ウィリアム・ストレンジについて英国流スポーツを習得し、さらに東大に進んでからは、有名な赤門運動会(体協)を結成し、あらゆるスポーツ団体をその傘下に糾合(きゅうごう・一つによせあつめ、まとめること)した。そして初代会長嘉納治五郎、二代会長岸清一博士のもとで、引き続き副会長をつとめる最高実力者である。それが青森県に赴任したとたんに、対校試合まかりならん、というのである。その原因は、かれの頑迷なスポーツ・アマチュアリズムにもあるが、直接には県立一中(弘前中学)と秋田県下中等学校の試合に乱斗が絶えなかったからである。そしてこの禁止令は、前記「学友会の三太郎」の時代まで続く。また時の八中野球部には、次の学友会員がレギュラー選手として活躍している。投手薄正義(すすき・まさよし、会津衆)捕手久保(のち三島)利義、セカンド夏堀悌二郎、センター神田三雄(内閣人事官)、レフト安藤安夫(種市町)、また、これにOB外様組が加わり、小中野が、一見、野球部落の観を呈したのである。
やがてこの伝統を受けついだ会員中から月館(のち尾形)留吉投手やカーブを多用したので「魔法」の異名をとった大久保一郎投手、さらには甲子園の舞台をふむ大下健一がうまれ、また捕手としては室岡杯の玄悦医師および田中泰・功兄弟、それにナラカン(奈良貫一)で鳴らした今の田中清三郎、名ショート佐藤義一・亮一兄弟が輩出する。
 ここで、いきなり大正十三年の三十周年式典に飛ぶが、その前に初代会長山浦武夫の作詞になる会歌に触れておきたい。この曲の原歌は、明治三十七年第一高等学校の記念祭に歌われた征露歌であるが、「ああ玉杯」と並んで特に喧伝(けんでん・世間に言いはやし伝えること)されていたので、かつて東京に遊学した山浦は、自作の歌詞にこのメロデーをつけたのであろう。さて次に三十周年記念歌であるか、この作詞作曲にあたった奥村勝治は、相棒の音喜多富寿とカネタ湯でひと風呂あびていた。所が突然「おお、できた」と叫ぶなり、褌一本で外に飛び出した。びっくりしたのは音喜多で、早速奥村の着衣をかかえ小学校の講堂にかけつけると、オルガンを前にして「春さくら花咲く目の本のォ」と唸っていたのである。 なお、この記念行事中、岩見対山と夏堀正三、奥村らによる「出家とその弟子」の上演があり、さらに対山師の「神経衰弱」と題するパントマイムもあって満堂を魅了したわけである。また五年生大久保幾次郎は、その主宰するマンドリン楽団を指揮し、いやがうえにも式典のムードをもりあげた。ころしも新旧の思潮うずまく大正末期。さしもの学友会も時計の振子のように、あるいは左し、あるいは右したが、しかしたゆまず時を刻みつつ、昭和期にはいるわけである。     

2009年4月21日火曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から

前号の田村邦夫氏の話から、吉田トミエさんを想起。この人を中心に八戸の音楽文化を探ろうと、八戸図書館で色々と調べると、小中野小学校百年史を発見。この冊子の凄いのは卒業生一覧がある。唸った。少年野球指導者、広田真澄氏の文もある。早速紹介。
思い出の野球と陸上競技
小中野体育協会長広田真澄
    小年野球
 八戸地方での野球処、小中野からは大石選手をはじめ沢山の名手を出して仲々盛んであった。私達は小学一・二年生頃から応援団に混って、遠く八中グランド迄歩いたもので、何時しか見よう見まねで野球知識を得、道路で布製ボールベースボールを楽んだものである。私達が六年生になった大正十二年春、青森の松木屋呉服店主催で県下少年野球大会が初めて開催されることになり、小中野からも参加する為早速学校に合宿練習。久保・稲葉・佐藤の諸先生から指導されたが、担任の関係から主として佐藤先生が担当、猛烈果敢なスパルタ教育を受けたもので、ハンブルしては怒嗚られ、悪投してはバットが飛んで来る有様、八重沢捕手は、ノックの時などバットで終始小突かれ被害甚大であったと今でも笑話になっている程である。三戸郡大会には八戸町をはじめ他の町村不参加で当時未だ村であった小中野が不戦優勝し代表となった。青森の県下大会には第一回戦で弘前大成に一勝したものの、第二回で東郡大野に惜
第一回
メンバー
投田中直
 小野寺
捕八重沢
一福岡勇
 泉山
二市川
三広田
遊福岡孝
左桜沢
中小野寺
 田中直
右中村敗した。
 翌十三年の第二回大会は、小野寺―瀬越のバッテリーで決勝に進み、青森莨町と決戦、瀬越のホームランラインを越す大ライナーを、驚いた                   観衆が逃げながらダイレクトで捕らえたので、着地点が不明で紛糾したが結局ファールを宣言されて二点がフイとなり、二ー一で恨みを呑んだのである。
 十四年の第三回大会は、猛練習で鍛え一肩充実した選手団であって、郡代表決定選は勿論、県大会に於いても破竹の勢いをもって次ぎ次ぎに相手を撃破し、全く文字通り鎧袖一触(がいしゅういっしょく・よろいの袖でちょっと触れる程度のわずかな力で、たやすく相手を打ち負かすこと)そのもので県下の覇を握ったのである。
     防犯少年野球
 戦後の混鈍たる世相の中に、小中野出身の八高生等によって野球チームが編成され、心身の鍛練を企画したことは、如何にも小中野らしい風情がある。その頃青少年の非行救済策として全国野球大会が、防犯関係者によって常行されることになり、二十五年には北友チーム(北横丁新丁)が八戸代表となったが、県大会では優勝した十和田チームに敗退し、二十六年にはインデアン跣ズが八戸市で優勝し代表となった。裸足か草履、服装は各自銘々の普段着、如何にもインデアンスにふさわしい。県大会では準決勝で弘前と対戦し、三回までに九―○と離されあと一点でコールドゲーム、誰しも負を予想したが、四回俄然投打開眼、最終七回で九―九の同点、延長八回で十五―十で苦戦ながら決勝に進み、堀越を破って県代表となり、仙台の東北大会に進んだのである。選手の気力と自信には全く敬服もので、自主練習の効果覿面(てきめん・結果・効果などがその場ですぐあらわれること)というべきである。
 東北大会でも決勝で宮城代表岩沼と対戦、先取得点されたが結局三―一で優勝した。いよいよ後楽園の全国大会である。一回戦は北九州大川チームに六―一と快勝したが、二回戦で名古屋中京クラブに三―一で惜敗、翌年を期して帰八した。
 二十七年は市・県・東北大会何れも予定通り優勝し、他の十五チームと共に後楽園に進んだのである。一回戦は広島を五―○、二回戦は新潟を五―○、準決勝で優勝候補の横浜と対戦し一ー○で之を倒し、新聞で散々に誉められるし、在京八戸人会では沢山の応援団を繰り出して一大声援、いよいよ決勝に臨んだが、相手は強豪、呉の三津田、速攻よろしく戦力の陣容整なわぬ間に四―○と離されたが、後半から東北人らしくねばりにねばってハ回三点を入れて五―三。九回は二アウトながら満塁、一打同点か勝越しの追上げムード、観衆は大いに湧きに湧き、一球一球の声援に球場は興奮の坩堝(るつぼ)と化して、決勝戦に適しい熱戦を展開したのである。結局玉川主将の捕邪飛で万事休したが、場内からは絶讃され八戸の名を高らしめた快挙と自負している。メンバーは
二十六年・投手・佐藤充、藤本、捕手・宮本、小笠原、一・玉川庄、二・佐藤洋、三池田、遊撃・岩淵、左・八並、中・根世、右高橋正、熊谷行、高中、杉村、月館孝
二十七年
投・藤本、渡辺、捕・橋本、一・玉川恵、二・月館孝、三・池田、遊撃・風張、左・高橋正、中・鈴木理、右・佐藤洋、音喜多、柳沢正、道合博
 尚監督四名、部コーチ玉川恵・川村久・鈴木清・市場駿の諸君で、現在も小中野で続いている防犯少年野球大会は、先輩の偉業を讃えながら、その精神を受けついで行なわれているのである。
    陸上競技
 大正十四年は、小中野小にとって野球と競技に於いて、空前の全盛を誇った年であると云っても過言でない賑いぶりであった。前述の県下少年野球の優勝をはじめ各種大会優勝のほか、陸上競技に於いても尋常科高等科共に県内最強のメンバーで、優勝に次ぐ優勝と誠に往く処遮(さえ)ぎる者なく全く破竹の勢いであった。参加した大会も郡教育会主催の三戸郡大会・八戸中・青中並びに鶴岡青年団主催の県下大会と権威ある大会に優勝、更に県森師範創立五十周年記念大会には、県内各校の俊英が多数参加したもののよく善戦し、瀬越(百・高・巾・三・円)下野(砲)リレー(瀬越・下野・熊野・内藤)のタイトルを得た尋常科と、広田(百・巾・三・砲)福岡(槍・円)、リレー(広田・中島・小野寺・石橋)の高等科と殆どタイトルを独占する形で共々優勝を飾ったのである。
  此の年優勝旗・優勝杯の総数三 十六の多望に達し、優勝旗祭を催して祝ったことを思い出すのである。前述の野球指導の諸先生と競技指導の対馬先生や、スポーツと勉学の両立をモットーとした八木沢校長先生の、共に喜んでくれた笑顔が今でも懐しくて仕方がない。

柔道
八戸柔道協会々長古川誠
 明治の中頃、盛岡から来た藤田と言う人が小中野町左比代に柔道場を開いた。これが当地に於け る柔道の草分けであろう。浜通りの青年が集まり隆盛を極めたが大正半ばに閉鎖したと聞いている。比道場は古流である。昭和初期岩田男也の開いた道揚がある。柔剣道合同であった。柔道の師範はいなかった。
 講道館柔道は湊学友会と水産学校の洋友会によって普及されたと言われている。
 学友会からは柔道の偉材が輩出している。夏堀悌二郎・正三兄弟、木村千太郎、夏堀道麿、工藤千代吉、大久保正、藤田久蔵、吉成武久、等等……。これらの人々のエピソードは数知れない。紙数の関係上割愛しなければならない事は遣惑である。私は学友会の末輩である。小学生の頃、学友会の柔道部に憧れた事を今でも忘れない。洋友会出身では柳谷一家の存在が大きい。柳谷明義は、大久保・藤田の諸先輩と共に一時代を画した名選手である。戦中から戦後にかけて大きな足跡を遣した柳谷勝雄はその次弟である。
 戦后は、柳谷勝雄・古川誠がその中心的存在であろう。八戸柔道界の重鎮、佐藤孝志先生を招聘し昭和二十七年柔道を建設し当地の柔道の発展普及に努めた。斯界の為に大いに寄与したものと思う。
 戦后に活躍した人々に、柳谷弟吉、勝美兄弟、大久保完美等がいる。道場出身者には、木村書店の木村忠雄(警視庁師範)土方博敬、町田勝巳等枚挙に暇がない。
 小中小学校に柔道クラブが創設されたのは昭和三十一年、三月二十二日、板橋校長時代である。板橋校長は八戸中時代名選手であった。
 役員は次の通りである。会長或は部長・板橋勇次郎師範・佐藤孝志理事・藤田久蔵、武田実、重茂得一、柳谷勝雄、橘喜助、古川誠、事務部・川村三郎、指導員・河野康之丞、阿部幹、桜庭健、高山惣一、石橋志郎 女子部・植村てる。
 部員数男子約百五十名、女子約十名、小学校柔道クラブ結成は県下で最初であろう。此クラブ出身者が高校で活躍した事は承知の通りである。
 星霜移り変わり道場もさびれつつある。然し有志相募り、昭和四十五年以来再び浜通りの青少年育成に意を注いでいます。現在、稽古日・月水金の三日間、指導員、大野恭衛・川口正範・横町健悦・佐藤武・達中清志であります。
 小中野小百周年に当たり小中野柔道を振り返って見た。自他共栄精力善用を通じ健全な青少年の育成を心から念じる。

  湊学友会の誕生
  青年会と学友会
 八戸市教育誌によれば、八戸青年会(北村益主宰)の発足は明治二十二年、湊学友会のそれは明治二十九年、とある。そこでいま、この両団体を乱暴に短評すれば、さしずめ「文明開化的村塾」と言ったところだろう。が、しかしこの村塾的存在が、いやしくも公的機関の記録に値いするのは、それぞれ[地域社会の文化水準を高めた]とする 社会教育評価にほかなるまい。ところでこの八戸青年会が、青森県尋常中学校八戸分校(八高の祖型)と湊学友会の設立に大きく作用したと言われる。そう言えば、尋中八戸分校の草創期における青年会が、この分校に占めるウェートは、かなり大きい。すなわち分校七名の教師中、五名までが青年会員であり、新入生の過半数もまた青年会員といったぐあいなので、尋中八戸分校の構成は、さながら八戸青年会PTAである。
 それかあらぬか青年会の鼻息が荒く、これを蔽(へい・つつみかくすこと。おおうこと)して遠ざけた町方が「青年会のドンドゴドン、袴コはいて草とりコ」というザレ唄を巷に流した。この、ちょっと捨て難い味の里謡は、多分にアンチ北村の響きをもつが、そんなら、この槍玉にあがった北村の人と成りは、どのようなものだったろうか。他意なく評して北村益は、一種の精神的巨人である。すなわち幾多の高僧哲人について道を求め、文武百般を目ざして「難行苦行ヲ以テ業務トシ」ながら、一方では八戸最初のピアス号自転車や今のスライドに相当する幻燈機、さらにはブラスバンドまで持ちこむという開化ぶりも示した。が、その心底は、どうやら自身の雅号たる△古心▽への回帰であり、錬成につぐ錬成をもって「コノ勤行ニ耐ユル者二非ズンバ会員タルヲ得ズ」と声をはげました。だから長男の北村小松などはグウの音も出ないほどシゴかれたし、京大柔道部の荒行
で今弁慶の勇名を洛中洛外にとどろかした甥の浅水成吉郎でさえ、こうあしらわれた。
  明治三十五年二月二日
      諧武員候補者浅水成吉郎
 右ノ者一月二十六日不都合ノ所為ニヨリ負傷致シ侯ニツキ一日ノ欠勤ヲ以テ三日ノ欠勤二算ス
 つまり北村によれば「たるんでるからケガをするのだ、このまぬけ」なのである。もっとも、これは北村の武断的一側面にすぎない
だろうが、とにかく時の中学校長をして拝跪(はいき・ひざまずいておがむこと。かしこまること)せしめたとあるから、剛気なものだ。ま、それはともあれ、前記尋中八戸分校が第二尋常中学校と改称されたこと、折からの八戸三社祭のさ中で炎上、時の県会で物議をかもした。このとき青年会が△八戸ノ発展上、中学校ヲ小中野ト大杉平ト何レニ置キテ可ナリヤ▽を討議し、票決により小中野十四票、大杉平二十票でケリがついている。
 これは、小中野の立地に青年会が無関心でなかった事を示しているが、しかし青年会が学友会に決定的な影響を与えた、という事にはならない。また当時、浜通在住の青年会員としては神田重 雄・石橋蔵五郎・中野菊也、それにのち小中野校の松木興身先生となった河原木興身ぐらいのものだ。そして、この中には個人として北村の知遇(ちぐう・人格や識見を認めた上での厚い待遇)をえた人があっても、全体としてどの程度に両団体のパイプ役をはたしたかも定かでない。そこで、このような考察よりは、むしろ学友会が青年会の△文▽を音楽演劇の領域にまでひろげ、またその△武▽をスポーツのレベルにまで高めた、という点に意義があろう。
  港から湊ヘ
 浜学友会の生れ育った土地は、浜ではなくて小中野である。それが、なぜ会名に△浜▽を冠するのかちと解せないが、これに似た例は、ほかにもある。すなわち新堀に残る湊駅、今は小中野局となっている旧湊郵便局などがそれだ。とすれば、あるいは明治二十三年の記録△小中野、昔ハ折本村ト称シテ今ノ二本杉近辺ニアリシヲ年号何レノ頃ニヤ今ノ所二移レリト。当村ハ元三小区ニシテ湊村ト言イシヲ其後、小中野村トナレリ▽に由来するかもしれない。 また小中野は平坦な土地に浜の主要機関や商店街ばかりでなく、花街や銭湯もあるという一種の文化センターであった。また、その花街や銭湯は当時警察の所管なので、そこに駐在所もあるというぐあいで、一見、タダイ(消費者)の集落をなしていた。これにひきかえ段丘からなる湊村は、ヤマド(山人)ハマド(浜人)と称されたカセギ手(生産者)の集落であった。

2009年4月20日月曜日

無から有を生む、八戸市川にイチゴ生産を実現させた偉大な魂の持ち主、教師であり農民、何より慈愛の人だった細川重計氏1

「水を飲む人は井戸を掘った人の苦労を偲べ」
こういう言葉がある。本州の北端、青森県にイチゴ栽培を提唱した男がいた。暖かい地方でしか育たないイチゴ、何故それに気づき、それを育て、市川地区に根付かせ一大事業にまで伸ばすことが出来たのだろう。
市川公民館が地域の歴史を掘り起こす努力を開始、その第一号の新聞に細川重計氏が載った。その記事で人間細川重計氏の大きさを教えていただいた。
昭和二十九年にイチゴに手を染めた。チョッと前の様な気のする昭和、ところが探すとなると遥かに遠い。どこまで、この重計氏の偉大さを記せるかおぼつかない筆でシリーズ物として追ってみる。
一九九七年、市川地区のイチゴ販売額はおよそ六億六千万円、提唱者も偉かったが追随した農家の努力が、無から六億円の事業を興した。人間力は偉大で、そして素晴らしい。ここにこそ、人間の人間たるを知る。貧乏のどん底、あれも無い、これも持たない。が、何も無いことは全てを持つに等しい。
細川重計氏はこれを実践した。
人間てのは経験の産物で、何を見、何を聞いたかで性質ってのが定まるもの。昔、長谷川伸って作家がいた。股旅物を書かせたら随一の評判を得たもんだ。
旅から旅への渡り鳥、何故旅をしなければならないのか、それが自身を探す心の旅なのか、渡世の義理立てをするためなのか、それは一人一人の境遇にもよるけど、長谷川自身が幼い頃、母親と生き別れたことが、深く心に影を落とし、母の無い子の寂しさ切なさが文章の端々に色濃く出る。
それが、大衆に支持され偉大な作家として未だ人口に膾炙される。「瞼の母」「一本刀土俵入り」などが代表作だ。現今のように、皆が中流暮らしになれば、不遇だの貧困の言葉は遠い昔の彼方に霞む富士の山のようなものにて、確かにそんな時代もあったような無かったような、奇妙奇天烈な話にも似て、長谷川伸も今の時代なら違った書き口を求められたことだろう。
人生は謎解きのようなもの、自身が求め訴えたことが叶わずして、それを不満に思いながらも子を生せば、その子にはそうしたことを味あわせたくないと、精一杯に気張って、それと異なることをさせるもの。それとても自身の裏返しで、子にとっては迷惑千万なもの。しかし、子はそれに気づくはかなり後年。母親が何を為すかは、そのときは知らぬもの。
さて、幼くして親元を放り出され、自分の知恵と才覚で世を渡れと言われたら、その子はどんな人生を歩むと思う?
世を拗ねて泥棒や人殺しになるか、それとも人の為に尽す人間になるか。細川重計氏は後者だった。
細川氏は明治三十七年和歌山県日高郡南部(みなべ)町で誕生。
南部町のホームページにはこのように記してある。
平成16年(2004年)10月1日、南部町と南部川村が合併して誕生したみなべ町は、和歌山県の中央部に位置し、黒潮の海に面した気候温暖な町で、日本一の梅の産地、また当地特産の「紀州備長炭」も多く生産されています。 海岸線は田辺南部海岸県立自然公園に指定されており、梅林や鹿島などの景勝地のほか、世界遺 産でもある熊野古道が町内を通り、遺跡など文化遺産にも恵まれています。また、熊野古道のコースの中で唯一海沿いである千里の浜は、本州随一のアカウミガメの産卵地でもあります。 早春には観梅、夏には海水浴、磯釣りと、観光の魅力もいっぱいです。 また、町内に湧く良質の温泉を利用した宿泊施設は、これからも近畿圏を中心に、各地からのお客様に広く利用していただけることでしょう
重計氏の長女、ユウさんからお聞きした話を軸に人間細川に肉迫。
重計氏が四歳の時、生木を裂かれるように親元を離れ、養子に出された。わずか四歳、何も知らぬからこそ親元を離れることができたのだろう。でも、草木をゆする風の音、瓦を濡らす雨の声にも、あっ、お母さんが来たのではないかと、幼い心は揺れ動いたことだろう。子にとって母は全幅の信頼を置くもの。又、母は子に無償の愛を注ぎ込むものなのだ。
貧しさ故に幼い、可愛い盛りの我が子を手元から離さなければならなかった母親の心根を思えば涙を禁じえない。
紅葉のような手を虚空に伸ばし、全幅の信頼を得ようと幼子が必死に母親の像を探し求める。平成の御世、国民等しく中流になれど、子が親を捜し求めるは不変。昔はこうしたことが多くあったもんだ。
重計氏の父親は僧侶。貧苦にあえぎながら人生の道を模索、生きる場を探し求める。人生は万人に等しく求める、お前の寄る辺は何処なりしや、身の置き所は何処にあるのかと。
重計氏の養子先は富裕な岩崎呉服店、順調に育ち和歌山県立田辺中学校を卒業、この中学は明治二十九年に創立された、八戸中学は明治二十六年、田辺市は和歌山県第二の都市、人口八万五千、和歌山県は郡部に人口が分散している。つまり農業県。
重計氏が中学を卒業したのは大正十一年、日農(日本最初の全国的農民組合、日本農民組合)が結成された。翌年には関東大震災(9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6。被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生)と世相は混乱し昭和へと突入するわけだが、重計氏は高等学校、今の大学に進学を希望するも養子先は商人に学問は無用と拒絶。
反物を担いで行商をするも、どうも性に合わないと飛び出す。人生の寄る辺を求め始めたのだ。坊さんの父親は知己をたどって青森県の南郷、昔の島守で高松寺を守っていた。そこを頼りに虚無僧となり北を目指した。
途中、瑞巌寺にて半年修行したというが、書き物に残っていないので、あくまでもそのようだったというだけだが、重計氏を知る手立てにもなろうと記す。瑞巌寺は皆様ご存知の著名な寺、松島にある臨済宗の寺。もと天台宗で延福寺と称し、828年(天長5)円仁の創建と伝える。北条時頼によって改宗。1610年(慶長15)伊達政宗により再興、瑞巌円福禅寺と改称。
そして無事島守に着き、八戸の尋常小学校の代用職員となった。今でこそ島守は南郷となり八戸市に合併したが、昔は田舎も田舎で通うは到底無理。そこで村重旅館に下宿。
村重旅館は寺横町、当主を村上重吉、それで村重なわけ、重計氏が教員としての振り出しが八戸だった。この後、鳩田小、鳥谷小、松舘小、島守小増田分校、田代国民学校長、鳥谷部国民学校長、多賀小校長と歴任するのだが、多賀小時代に市川地区の人々と交流があった。これがイチゴ栽培へと開くのだ。
市川地区が細川重計氏を求めたという言い方もある。身の置き所が教員以外にもあったと言う事実に驚嘆。普通の人間なら、教師になれたことで満足するところだが、重計氏はそれだけでは飽き足らなかった。小井川潤次郎って民族学者が八戸にいた。この人は昭和7年、八戸市の郷土史研究家で「工芸」17号に紹介した、藤右衛門の小絵馬は民芸愛好家たちを驚嘆させる。日本民芸運動の提唱者であった柳宗悦氏は「日本の民画史は、この発見で立派な一章を追加した」と、小井川氏の功績を称賛したほど。この小井川氏から様々なことを吸収、ことに植物に対しては広く深く知識を得る。市川地区で農業に初めて手を染めたのではなく、島守時代にすでに青果物に興味を示していた。
重計氏は八戸の青果業、仙台屋の娘ヨシエさんと結婚、生まれた子供に小井川氏から命名して貰う間柄。長女が幽。長男が黎で、幼い頃は幽霊姉弟と囃されたそうだ。近所の子供には理解できなかったのだ。そうしたもんだ。自分の経験しないこと理解できないことはなかなか進んで実践しないのも人の世。しかし、小学校校長の意見を入れ、市川の人々はイチゴを物にする。(つづく)

2009年4月19日日曜日

明治四十二年の八戸

当地には開業医十三名の多きに達し戸口に対しては過剰の方に有之候得共先輩あり新進あり各自特色特徴を有し夫れ相応に流行致居候就中世間に最も信用有之候は種市、武藤、藤田、羽生の四国手にして其呼声別して高き方に承知致居候
一に親切二に手当てと言える諺の如く医師には親切と同情無之候ては如何に技量が抜群にても又衣服が雅美にても患者には左程効能を感じ不申候貧家にもあれ夜中にもあれ請求次第往診し貧家なれば夫れだけ同情を表し富家との差別を立てずして診療可致は仁術の仁術たる所以にて可有之然るに十中の八、九は患者の身元を本位とし富家なりと聞けば道路の遠近と昼夜の区別とを問わず診療中の患者を放棄してまでも飛び出すが常態にて有之又之に反し貧家なりと知れば現に在宅でありながら不在を唱いて玄関払いと致し百万遍請求したればとて梃子でも動く者に無之若し其患者に薬価の停滞等有之候場合は反対に全部の払い込みを求め候など為に診療の時期を失し急症患者は往々非命に斃れ候者も有之其の不仁術の所為実に悪むべき次第と存候
種市良一国手の今日に於ける盛運を開かれ候には種々なる遠因近因も有之候得共同氏は先天的親切と同情に厚き人に有之内外両科の衝に当たり日々暇なきに関わらず患家より急聘これ有候時は如何に劇忙中にても又就寝中にても往診し其の患者に対する言動の親切なること宛も慈父母の如く所謂一視同仁にしておきがたき患者なりとすれば請求を待たず回診いたすのみならず薬、診療費如き正確不足あればとて決して過当の請求なく十年一日の如く其の職に精励せられし結果にほかばらざるものと存候
しかも氏は深く公共事業の観念に富み又後進養成の義侠にも富み篤志看護婦会外二、三の嘱託講師を担当しかつ多年避病院の主医師として尽力せらるる所あり後進生の為には自費を擲って学資を供給しよく其の器をなさしめたる者少なくこれらは世間の未だ知らざる所は貧家に対する氏の同情にこれあり候医師の多くは仁術の名を売りて患者を招致せん為め故らに貧困者には施療すなどと吹聴いたしおり候得共其の実は偽善的名義のみにして適々施療を乞うものあれば役場の証明書を持参せよとか申し込みの言語が横柄にして無礼なりと種々理屈を主張し容易にその請求に応ぜざる者多き由然るに氏は患家の内情を実見し薬価等の支払いに差し支え候者と観察いたされる時は施療と言わずして仮に五円ある分に対しては五十銭若しくは一円として名義を付し実費なりとて申し受け又真の貧困者に対してはかなり手数を省略し施療を快諾せらるるが例なりとうけたまわり候などは全く氏が天性の発揮する所にして他の容易に企て及しあたわざるところの義と存候
氏は資性温恭にしてしかも精敏の気眉宇間に充溢し侵すべからざる所これあり
医師と看護婦もしくは患婦等に醜聞関係のあるは当然、之なきは寧ろ不可思議位の今日に際し氏には更に右等の醜評これなく以って氏が如何に身を奉ずること謹厳かつ方正なるを知り得べく候氏が嗜味は医学上において旧説にも深甚なる趣味を以って研究し又新説に対してはあらゆる著書を渉猟し出京の折は大家について研鑽修得せらるるの一事にこれあり畢竟職に忠実熱心なる結果と推考致し候とにかく氏の如きは斯業界にめずらしき一人物と称するも決して溢美ならずと確信致しおり候

○ 魚市場不認可
十一日町に新たに魚市場を設置すべしとて小松辰次郎より出願したる件は調査の結果知事より不認可の結果を受けたりと
○ 舘村役場移転問題と正義派
現在の舘村役場は一時民家を賃借し充用し来れるものなるがいやしくも一村の政務を取り扱う公衙としては不適当不体裁なるより之が新築の必要は数年前より村内一般の認める所となりし結果右費用としてすでに七百余円を準備せしより愈々機熟して本期の通常村会於いて満場一致新築を可決し事なるがその際位地に就いて寺沢議員より建議あり其の大要は従来の役場は一部の村民には便利なりしも多数の村民は二十余年も不便を忍び来たれりを以って今回の新築を機とし一般の便利を図るが為め大字八幡に卜定すべきと言うにあり採決の結果五名に対する七名の多数にて可決確定したるに関わらず反対派は個人利害を本位とし無知の村民を扇動して種々運動を取りしより出町村長は無責任にも超然主義を言明して尻を監督庁に持ち込み其の処断を放擲し更に頓着せざる有様なるより正義派の寺沢、吉岡、佐々木、三浦、出町、松田、岩沢の諸氏を首めとし村民四百余名は大に村長の優柔不断を憤り村会の確定議を無視し暗に疑いを反対派に通じ両天秤を振り回すに於いては先ず不信任を決議せざるべからずといきまく者ありいづれ本問題の解決如何によりてはひと活動を見るべき形成なり監督庁は宜しく世論の趨勢に稽いこの際速やかに解決を与えるが必要なるべし

明治四十二年四月十九日版
鯨体解剖所再挙の絶望
沿岸漁民に対する報復手段
解剖所設置の絶望 大日本捕鯨会社の企画せる蕪島に於ける鯨体解剖所の設置は地方庁より不許可の指令ありたるを以って彼らは更に鮫沿岸の私有地を卜し再挙を企つべしとの説ありし故、吾はとりあえず之を前号にて報じおきしが尚聞く所によれば彼らが目指せし該私有地は鮫村松橋兵八氏所有の由にして、同氏は捕鯨問題の起こるや率先挺身解剖所設置に反対したるのみならず、資性狷介剛直利益に叩頭(こうとう・頭を下げる)して公益を無視するが如き人物にあらざれば、捕鯨会社の交渉には到底応ずべくもあらず、かつや幸いにして適当の地点を得て之に設置するとても激昂せる沿岸漁民は袖手(しゅうしゅ・何もしない)彼らの為すがままに委(まか)すべきや、多数の利益に反したる企業化に対する高圧的運動は、吾のしばしば目撃する所、○○彼の鉱毒問題やトロール事件にても一般の知らるるべきに非ずや、今日当地沿岸に於いて捕鯨解剖所を強いて設けんとするが如きは吾は一営利会社の為に之を取らず、かの如きは徒に地方の公安と安寧を害うのみにして、百害あって一利あらざればなり、之を○するにかく漁民の一致反抗ある以上、近海沿岸に於ける解剖所設置は当分絶望なりと言うべきなり
はちのへ紙の狂態
捕鯨問題の起こるやいち早く之に賛辞を呈し社員を石田亭に伺候せしめて解剖所設置に助力至らざるなかりしは「はちのへ」新聞社なりき、彼らは捕鯨解剖を以って何等漁業に有害なるものに非ずとなし、捕鯨会社企画を以って地方における一美挙と頌し之に反対するは狂愚の所為と断ぜり、すべて一朝漁民の大反抗来し、我が社亦漁民の言うところに聞き敢然として本問題解決の任に当たるに及び天下の信望○然としてわが社に集中するを見るや、「はちのへ」紙の懊悩煩悶言わん方なく遂に去る十三日の紙上に於いて一大狂態を演出するは読者諸君のつとに知らるる所なるべし、彼らは冒頭第一に水産家の言に聞き漁業に対して妨害になるものではないとの言を信じ漁家の間接なる利益なるべしと思うて書きたる迄なりと弁ぜるも、之何等弁解の辞となるものに非ず、いやしくも一管の筆を握りて職を操觚(そうこ・文筆に従事する)に任ず、一言一句も直に幾万生霊の安寧幸福に影響する事あるを思はば、何ぞ軽々に速断盲動を許すべけんや、「はちのへ」紙の言の如きはただ自家か無定見無方針無見識を表白するのみと知らずや、而して二つ石事件の当時極力尽瘁(じんすい・一所懸命に力を尽して労苦する)して漁家のため貢献しても一文も強請もせず恩を売ったこともなし、何時も漁家の不利益を図る様なことはせじ、今回の事も決して漁家の不為になることではない元々利益する所あれと祈る所から報道をした迄である。口吻は宛然としてよく小説にある「お前をアノ旦那の愛妾としようとするのは、決してお前の為悪かれと思うからではない、お前をこう大きくするまでには並大抵な苦労ではないのだ、お前に三味線や遊芸を仕込んだが如く愛妾とするのも、お前が立身の為」との強欲婆が養女を猫なで声で説得するにも似たらずや、彼らが沿岸幾万人の犠牲とせる、捕鯨会社の企画に賛助を与えながら一方漁民に対しては其の利益を保護すると称し、又次号にては翻然反覆遺憾なる指令なりとか、理事の懐旧談とかの泣き言を陳ね、首尾転倒支離滅裂論旨の透徹せざる吾はむしろ気の毒の感にたえざるなり、殊にわが社に対する讒誣(ざんぶ・他人を陥れるため、事実を曲げ悪く言うこと)の材料として二つ石事件と福田祐英氏の往事を並べし来たり、石橋、福田の両氏ともわが社同人の同志なるは事実なり、然れども是は或る限度の社会上の行動における同志で、二つ石事件や漁業組合やに於ける二氏の行為は例え如何なる行動ありしにせよ、責任は両氏において負担すべき一個人の私行為にして、決して吾の責務に煩いすべき限りにあらず、然るに「はちのへ」紙は鬼の首でも得たるが如く之を以って吾が行動を律して中傷を試みんとす、あたかも黒布を以って太陽の光輝を奪わんとするの愚と選ぶなけん也、かつや「はちのへ」紙の陋態(ろうたい・いやしい様子。みぐるしい姿態)として二言目には必ず金銭問題に非ずんば選挙の際に於ける利益問題を云為す曰く奥南社は運動費若干を強請して拒絶せられたりと、曰く選挙の際に於ける利益の提供を迫りたりと、是等は自己のみにくい心を以って他を忖度するの甚だしきもの也、吾は政見の抱負より時に逐鹿場裡馳駆することなきに非ず、又金銭は或る程度まで社会的活動に必要ならん、然れども是あるが為に吾が究極の目的はこれありとなし、吾の行動は一々之に拘束せられるとなすはあやまれるも亦甚だしと言うべきなり、殊に本問題の如きは地方沿岸幾万人の利害休戚(きゅうせき・「休」は嘉、「戚」は憂の意 喜びと悲しみ。よいこととわるいこと)に関する一大問題にして、決して党派関係や利益私情を挟むべきの問題にあらず、勿論「はちのへ」紙の妄言の如きは世上一人の之を信ずるものなく我が社の公明正大は既に大方識者の諒知せらるる所なるを以って敢えて弁妄の要を見ざるも一言ここに真意を陳せん、吾は彼の権勢におもねりて言を枉げ黄白に眩して説を二、三にするが如きは断じて之に与せじ、世の詼諧かいかい・おどけふざけること。おどけ)売文の徒と同列視するに至っては吾は実に片腹痛きに堪えざる也
腹癒せ的報復手段 
長谷川一輩の徒は沿岸に於いて到底解剖所設置の場所を得ざるより、漁民に対する腹いせ的手段として利益の損得に係らず、近海地先専用漁区域外に捕鯨船を引き来たり、面当てかたがた捕鯨解剖に従事すべきを公言しつつありと専用漁区外にての彼らの行動は法制上或いは沿岸漁民の如何ともする事能はざる所なるべきも漁民の凡ては申し合わせたらんがごとくに実に左の決意を有せるを知らざるべからず
一沿岸漁民は捕鯨船の近海に立ち寄るを断じて許さず
一漁民はこの目的の為めにはあらゆる手段を講ずるを辞せざるべし
かかる決意を有せる漁民に対抗して捕鯨業に従事せるは捕鯨会社の立場として決して策の得たるものにあらず、捕鯨会社たる者宜しく事件の大局に注視して速やかに近海沿岸における一切の企画を徹し漁民をして一日も早く不安の念を絶たしむべき也、今や本問題も一段落を告げたるを以って吾は一先ず筆を置かんとするに当たり大方識者の指導に依り、吾が微力を以って本問題解決に涓埃(けんあい・しずくとちり。転じて、極めてわずかなことにたとえる)の資をいたしたるは、吾の密かに快とする所なると共に諸君が指導に向かって其の労を謝せんと欲するもの也
三戸郡第二回物産展
評価ニ二等賞を得たり
箪笥家具小細工業
八戸十六日町上角
西村徳助
春肥用格安魚粕種々仕入れ置き候
八日町
大岡肥料店
弊館調整の写真は色沢鮮美不変色にして最新流行各種写真大勉強貴需に応ず
写真 各種大勉強 中番町
高野写真所
弊館は懇切を旨とし且つ御満足を充すに努め多少に拘わらず出写のご依頼に応ず
各種博覧会品評会において
銀牌銅牌及び賞状を得たり
十六日町六十番地
最上醤油
しら藤印
味噌各種
加藤庄五郎
新流行
教員学生服
元浅沼
清野裁縫店
二十三日町

2009年4月18日土曜日

奥南新報続

三戸の昨今
松十旅館の改良
昨今諸事改良加え勉強と誠実を旨とするより投客の気受け頗る良好なりと

八戸町会議員名寄帳
今淵正苗氏
今淵さんは医者だと言い、高利貸しだと言い、湯屋の亭主になったとまで言う、それもそのはずか、何時先生の前を通ってみても看板が真っ黒になってしまっていて医院とも診療所とも読まれぬ、それは患者も薬収も見えたことがない、一方には大分お金を貸し出し召される、高利の事とて貸す方にも借りる方にもそれ相応の無理も魂胆もあるものと見えて始終刑事沙汰が絶えぬ、我々も其の手練手管を聞いてはいないが滅多には明かさぬ、この事実からして今淵さんが医者から高利屋に転業したと思うのは全く以って無理もないけれど僕が名寄帳を作るについて調べた所によれば正に金貸しを営んではござるが医者も其のまましてござる、昔から医は仁術と言う、その仁術の看板揚げた表には日がな一日人っ子一人寄りつかないで、血を吸い肉を殺ぐような裏手の高利屋が爪も立たぬ程な繁盛とはそもそも浮世は不思議なもの、裏と表とは元より反対に相違なけれどこれほど違った両面を一っ胸で使い分けるとは到底事実が合点せぬゆえ気に叶った一方のみ発達するのは当たり前のことならずや、ヨシヨシ分かった、そもそも湯屋の亭主とは如何、それにも曰く因縁があれど(以下不明)
を以って推されたる一人なりしが廃校後上京して医科大学中の別科生となり業卒って郷に帰り開業以って今日まで経るが先生は斯道における学術経歴共に奥南医界の牛耳をとるに足るのみか其の豪儀の気性と不屈の意思とに至っては更に歓称すべきものあり、僕が初手からして先生と崇めるのも単に医者だからばかりでない所が思いきや、それが高利貸しの方へ発展しようとはだ、併し其の所が先生のことだから大に貯めるは大に散ぜんが為かも知れぬ未だにわかに非難するべきでないと思う
(以下略)
○三本木通信
当村において最も信用ある各種を挙げれば益川呉服店を首めとし酒造家は三浦由竹、小間物屋は川崎新兵衛、請負師は南専松、金貸し業は大竹久八、医院は佐竹左門、菓子店は中島曙庵、貸し座敷は福遊楼の島田某、料理屋は三輪兵太郎、写真師は○原某、侠客は中村倉松、米やは三浦友次郎、豆腐屋は菊池茂、湯屋は佐々木クラ(以下不明)
八戸町会議員名寄帳
石橋源三郎
同じ石でも玉につく石もあれば瓦にも劣る石もある、石橋叩いて渡ると言えば至って堅いはずなるに其の実は焼け石ボロボロ箸にも棒にもかからぬ代物ありとぞ、同じ石族の中にも石橋源三郎と呼ぶ軽石みたような浮かれ男はあれは全体とうの昔、小中野へ男妾に住み込んだと聞いていたに驚いた、驚いた、町会議員とは驚いた、初めてそう聞いた時は定めし何かの間違いであろう、小中野廓内に日曜会とか呼ぶ四角張った名前の売女団体があるそうだからその役員でも為ったと思うたに、これは案外千万なるご出世、去るにても刷新凄まじくかかる名議員達を吹き集めて何事の誤相談召さるにや、八戸も段々道化てきていずれ其のうちには役場からエンブリでも出るように刷新するであろう、その時はこれらの人も満更役に立たぬでもあるまい、源ちゃんは第一背器量がいい、さしづめ藤九郎という役目だ、老後の思い出に一踊り踊るもこの上のご名誉であろう、ただしこれは未来のことだ、何かさし当たっての仕事があるまいか、あるある、好いのがある、写真を撮ることを知っている、先ず町会議員を一人一人撮影させて芸者なみに技術の標本とてもして「はちのへ新聞」に掲げることは当人も議場で口を叩くよりかお易い御用であって掲げられた仲間が嬉しがっておまけに新聞が一段と器量を上げるに極まったり、唐にも天竺にもこんな妙案が又あるべきやは、傍聴席の我々も大いに頗る賛成申す、右の次第でこの先生八戸には滅多にいないが、それでも何時の間にか、男の子を三人までも拵えた長男は或る料理屋が蝶よ花よと育て上げたる娘を孕ませた、さすがにおれの子だと喜ぶかと思いの外の大立腹で手を切らせた、己目の前に実行を見せ置きながら親の真似をしたとて怒るとは甚だ聞こえぬ理屈だが次男も三男も家の金銭を持ち出して女と賭博に使い捨てたことはいくら 「はちのへ新聞」に頼んで奥南を虚報呼ばわりしても打ち消し難き事実である、結構でござらぬか、親に似ぬ子は鬼っことさえいう「お前によう似たやや生んだ」カカアからして誉めねばなるまい、豪傑の子多くは豪傑にならざるに反して放蕩者の息子を立派な放蕩者に仕立てるとはなかなか人の及ばぬ所、ハハア議員になる値打ちはこの辺にてもあるのか畢竟実物教育の効験恐ろしや恐ろしや
○愛国婦人会当町有志の義捐金募集
金一円柏崎新町正部家キヨ、金五十銭二十三日町金子キク、八日町藤田ミ子、金三十銭番町武藤ナホ、二十三日町藤井ミ子、同藤井カク、長横町西舘ノブ、山伏小路柳川テル、八日町大岡リヨ、金二十銭十三日町中村サイ、同中村カク、同村井トミ、同大橋トメ、荒町西川トメ、同下斗米トラ、同吉田コト、同滝沢リチ、同滝沢スエ、糠塚大原ヤエ、六日町岩岡フジノ、同小野寺ツキ、長横町西舘マス、同高木リキ、朔日町古内フク、同松館ミナ、十一日町広田トク、同田村キヨ、同西舘エキ、下大工町羽生ミドリ、同石橋カシ、柏崎新町接待ナツ、類家白井シゲ、同吉川ソノ、二十六日町大久保コト、三日町橋本トク、大工町杉村キン、田代村小野寺イシ、八日町米川フジ、二十八日町石橋トヨ、金十五銭六日町岩岡コノ、同岩岡アサ、金十銭八幡町井上マス、同植村ミワ、鳥谷部町佐藤ツユ、同岩崎カナ、十三日町加藤ハマ、同三上トキ、同高橋ムラ、同高橋トク、同大橋ヤス、同加藤カ子、同林タキ、同林ミセ、同安藤アヤ、同大橋トヨ、同八田ユミ、荒町福井カ子、同更沢カ子、同下斗米ハツ、同大島ミチ、同川口トク、金十銭荒町島守ツル、同船場トラ、新荒町八田セン、同大久保マツ、同北村イツ、同大野ソノ、同斉藤イワ、同斉藤ミヨ、同三井ヒサ、徒士町鈴木セイ、稲荷町山崎ウタ、同稲城タカ、同稲城ヨノ、上組町大久保トミ、長横町木村クラ、同江刺リエ、朔日町大山ヨシ、同宮本サト、十一日町石橋まさ、下大工町高橋ナヨ、柏崎新町玉内チャウ、同久水リエ、岩泉町楢舘 ナカ、番町小野寺スカ、同大村スエ、山伏小路寺井ミ子、同折壁トウ、鍛冶町岩崎イツ、同扇藤スエ、同上野トク、大工町高橋イシ、同松宮トミ、同安藤キイウ、同松村キヨ、類家工藤リセ、同工藤キサ、糠塚河合トヨ、六日町工藤ハル、二十三日町大久保イシ、下組町名久井チヨ、同安藤キク、同牧野ヨシ、同下斗米スエ、同河原木サダ、八日町小笠原タ子、同稲田スエ、同荒木田フク、三日町村井ヤヨ、十八日町桑原ヒデ、番町楢舘ツナ、上徒士町都築テル、町組町西久保ナカ、金五銭十三日町村井カヨ、新荒町根城サヨ、本徒士町稲葉ミチ、下大工町杉山ハル、長横町滝沢チヨ、山伏小路神山ヤエ、三日町中里ナカ、下組町千葉キン、同千葉スエ、鍛冶町久慈トク、
○前浜遭難溺死者弔慰金寄付人名簿
佐々木馬吉、猪内孝三郎、久保沢三郎、熊野石太郎、林岩松、清水三郎、荒川三郎、佐々木市三郎、軒申松、松田成松、富田忠次郎、磯谷熊吉、富田長治郎、株五郎、荒川岩松、清水松三郎、富田丑松、富田由松、柾谷宇之松、伊保内寅之助、佐々木金蔵、佐々木寅之助、佐々木熊太郎、浜田弁吉、佐々木孫三郎、佐々木元太郎、浜浦八太郎、沼田岩松、佐々木孫市、寺戸直太郎、新町三太郎、佐々木石松、佐々木ふく、山内丑松、小林藤松、佐々木寅吉、荒川吉五郎、佐々木三郎、南五郎、磯谷甚太郎、磯谷仁蔵、佐々木千之助、磯谷由松、山内與吉、高橋初太郎、清水八十八、佐々木末吉、清水丑松、清水菊冶、清水兼松、清水三郎、鍋島五郎、清水三之助
○八戸町会議員名寄帳
石橋万冶
石橋家は八戸町の旧家たると同時に名族である、したがって人物も輩出したが近代に於いては先ず万冶氏を推さねばならぬ、宗家の寿備翁は飄逸高雅の人であったが常に「我が一門中幸いに万冶のあるを以って我徒を代表せしむるに足る」と人に語られた翁の明鑑宏量も又称すべきである
石橋万冶氏は町会議員中最も長く勤続しつつある且つ郡会議員もしたり県会議員ともなられた人である、実業方面に於いてはこれまた長年の間階上銀行の重役をも兼ねられた事がある、そうしてこの節は家政をば令嗣直三郎氏に任ぜられて自分は徒士町の別邸に専ら養蚕を事としておられる、氏は斯業を以って地方開発上重要なる事業の一として身をもって之に当たらるので、氏が出るにも入るにも常に地方公益の為に心を致さるるのは今更の事ではないが他にあっては安逸を貪るべき位地を以っては事業の為に老いの将に至らんとするを忘れらるるとは宜しく多とするべき所である、氏の如きは実に政治方面に対しては八戸町の元老と称すべきである
氏は性質沈重温厚しかも内に毅然として侵すべからざるの精神気魄を蔵せらる、他に対して任せらる限り任せる、譲られるだけ譲る、しかも其の限度を超えるに至っては断じて許さぬ、氏の政派を起こせる乃至選挙を争えるもの詮なしこれはみなこの精神の実現に外ならぬ、かつて土曜会の企てあるや氏実に発起者の一人にてありき、しかるに創立総会において気に食わぬ会員を名簿から除きおきて退場を迫るの狂態を演じせしよりさすが温厚の氏も別に公民会なるものを設けて一旗幟を立てるのやむべからざるには至れりき、しかして氏は該会領袖の一人として概会の益々隆盛に赴くと共に氏の名声も亦愈々重きを内外に加えたりき、氏は元より自ら陳頭に立って華々しく剣戚を振るう所の戦士ではない、しかしながら枢機に参して大体を案じ作戦の計画をめぐらすについては頗る大切なる名将である
○六ヶ所村通信
山役人の休職
野辺地小林区署当平沼保護区詰なる森林主事菅英氏は昨年六月中より隣村甲地村長者久保保護区を兼任することなり爾来両村を受け持ちおりしが先般青森地方裁判所において官印盗用森林窃盗の罪名の許に重禁固一年半の処罰を受けたる天間林村榎林千葉三郎との間に該事件に付如何わしき風説ありしが、それかあらぬか本月中旬に文官文限令により休職を命ぜられたり

2009年4月17日金曜日

奥南新報

阪本安太郎氏と鍛業
八戸二十八日町鍛工なる同氏は久しく斯業界に雄視つつあるは世の知る所なるが今を去る十八、九年前地方に於ける製軸業の勃興せる時に当たり右に用いる刻み機械の破損することあるも修繕に応ずる鍛工なきより往々事業の進捗を妨げる概し自ら神戸に至りて完全なる「ダライ」盤を購求すると共になお其業を暦修別に自宅裏手に該工場を設けしより歯車その他要部の修繕等に至る迄差し支えなく注文に応じ得られる事となりしかば他に便益を与えること多大にして地方の機器修繕並び新製は挙げて同氏の一手に帰するの盛運を開きたり日々使用せる熟練の職工を合して十数名に達するの外渡り職人の来たりて使役を乞う者少なからざるも役に立つ者は十中一人位にして幾んと信用し難たし中には田舎鍛冶屋と軽蔑して法螺を吹きたて「ダライ」盤の使用方法も知らずして巧者ぶり、論より証拠実地に掛けて試験するに大へまをやらかし道具を破損して逃げ出す者などありて容易に口車に乗られざるが多しとぞ、古名工が鎚の音を聞きて精妙を悟りしと同じく氏も鎚打ちや「ダライ」盤運転の響きによりて直にその職工の技量と機械の具合を識別することが容易に出来得るというに徴するもまた斯業に熱心にして深き興味を有するを知るべし氏の如きもと平鍛冶より叩き上げて今日の盛運を開くに至るまた尋常の腕前ならずと言うべし
○軽米岩岡商店の近況 同店は開店以来頗る繁盛しつつおるが来る旧二十七日より正月七日まで十日間景品付大売出しをなす由
和洋小間物陶器漆器硝子器雑貨
文房具運動器撃剣道具一手販売
ランギペン一手特約販売
陸奥国八戸三日町
関野重三郎
荷札弊店製造紙製ツエ
キハ価低廉ニシテ頗ル便利也
見本ハ御申込次第進呈
八戸二十三日
伊藤荷札店
八戸三日町
片岸元吉
石油硝子器類
洋釘類
諸紙類
畳表類
その他種々

弊店販売の時計及び付属品双眼鏡望遠鏡眼鏡その他諸機械類は構造精巧堅牢なり
弊店は誠実を旨とし廉価にて販売す
弊店は御需に応じ入念精密に修繕す
白銅皮中形二円半、本銀片硝子アンタル六円四十銭、同両蓋八円、七日巻き十円、本メリケン小型中型十七、八円、その他新型時計種々ボンボン時計小型二円八十銭、三円、三円半、四円その他種々
八戸番町停車場通り
前原時計店
各湯屋備え付けの時計は時間正確に致し置き候

八戸町大字堀端三番地
横沢新太郎
改良亀の井
銘酒千とせ
官塩元売捌所

本紙一枚一銭五厘
一ヶ月定価十銭
郵税一枚当たり五厘
毎月十回発行
広告料 五号活字十七字一行一回金五銭五回以上金四銭、特別広告料は通常料金の三割増し、いずれも前金
発行人 近藤喜衛
編集人 関向堅吾
印刷人 石原義衛
陸奥国三戸郡八戸町大字堀端三番地
発行所 奥南新報社

○屋根転落して頓死
三戸郡地引村大字苫米地五十七番地平民大工職夏堀源松は去る一日午後二時頃自宅細工場に於いて工事に従事中雪のため屋根転落し頭部を強く打たれ鼻耳口より出血甚だしく直に医師の診察を受けたるも遂に午後四時頃死亡したりと
○八戸精米所の開設
八日町吉田三郎兵衛氏は今回自家所有の下番町敷地に精米場を開設し昨今しきりに運転しつつあり

○何ぞ暴慢なる
大日本捕鯨会社が極力怪運動を試みたる屠鯨所設置の出願は、公共に害ある故を以って不許可に帰したるに関わらず、走狗的奸輩はあくまで○欲を逞しうせんとし、更に恵比須浜の私有地を選定し、屠鯨所を設置するに意ありと伝う、真否未だにわかに断じ難しといえども万一拠ある風説なりとせんか、何ぞそれ暴慢にして、公利公益を無視するの甚だしきや
彼奸輩等の主張する所によれば、地方庁が不許可を与えたるは、官有地に係れるに由るも、別に私有地を選定し設置する以上、何等容啄の権能なしと、是れ所謂鈴を盗んで耳を覆うの類に外ならず、縦令私有地たりといえども、苟くも公利公益に妨害ありと認める以上、地方庁は行政の職権を以って、十分これを制裁するの機能あること無論なり、いわんや衛生上公共上公安上に妨害ありと認めるに於いておや、いわんや地方庁が与えたる不許可の理由は、彼奸輩等の解釈するがごとき狭義的の理由にあらずして、きわめて広義的な範囲を有するに於いておや
地方庁己に認めて公共に害ありと為し、又地方一般一致して之を否認す、彼奸輩等如何に三百的口吻を弄し、かつ如何に一部の臭類誘惑するも、其の目的を実現せんこと断じて不可能なるべし、もしあくまで公益を軽視し、暴慢を逞しくする如きあらば、関係漁民の公憤は斉しく発して再び紛擾を激成せんこと必然なり、一片地方公益を尊重するの意ありとせば、須らく猛省自抑する所なかるべからず
○文明の利器は国家経済の基
手間少なき人自炊者等に最も適すマッチ一本にて点火すれば直に強熱を発す無煙無臭一点の臭なく飯湯魚肉を煮炙る等即座に弁じ誠に文明の利器賞賛の外なし
一枡の水沸騰十分間     石油一厘代
一枡の飯炊き上げ二十分間  石油二厘代
定価 二円半より六円位
官許度量衡器販売所
米田金物商会
八戸町三日町
会主 米田宇兵衛
営業部主任 米田善三郎

本社は各高級技師諸士の名誉社員を有す
本社は缶詰製造上設計及び見積もり等惣てのご依頼に応ず
本社は缶詰製造上に付十数年来の経験を有す
八戸実業缶詰工社
社長米田宇兵衛
副社長高橋吉助
理事八田宇吉
  志賀十二
  吉田紋次郎
  米田善三郎
  米内山健助
八戸町大字窪町四番地
珍菓特約販売広告
月ヶ瀬乃梅
臥龍梅
園の薫
都の誉
右四菓子は衛生上有益の原料品のみを混合し調整方丹精工夫をこらしたるものなれば永く貯蔵にたえかつ体裁優美にしてご進物として最適当也依て地方販売方を三井商店に一手特約仕候間沢山御用命仰せ付け被下度奉希上候敬白
東京市京橋区入船町二丁目
菓子製造販売商 古市本舗
陸奥八戸新荒町
地方一手特約販売商 三井惣助
八戸三日町 菓子商 松橋貞吉
  十八日町 菓子商 藤源福蔵
  湊新町  勉強堂 中島新太郎
  湊浦町  花月堂 山内初太郎
  白銀       大橋留吉
○新流行新柄
教員学生服
八戸二十三日町 浅沼裁縫店
○表具師 八戸十六日町 中島嘉吉
○クリーム石鹸 代理店
八戸二十三日町 工藤伝三郎
○種油製造業
煉油類
肥料製造販売
陸奥八戸三日町
橋本和吉
○八戸町会議員名寄帳
小山田定弥氏
氏少壮東都に遊学して法律を修めたり、すでにこの素養あり、思慮綿密にして挙措苟しくもせざる○る処ありというべし、家代々富裕なれども驕らず高ぶらずさりとて理義を重んじ人情に厚く公益慈善の為には常に相応の出金を惜しみたることなし、他にあっては己を奉ずること奢侈にして他を待つに卑吝を極むの者滔々皆是なる間に立って、己を持する頗る厳に反って他に対して寛容なるは何人といえども感服せざる能はざるところなり、氏は金持ちにも似合わずハイカラ式を好まねば未だかつて自転車に乗らずといえども義理と褌を欠きたる例なく、世の中には役人とさえ聞けばどんな小役人へでも手摺骨拝しながら立派な独立の人間、威張りたがる者あれど、氏は全く違って、ヘッポコ官吏などへペコペコお辞儀せぬ替りにどんな人でも粗末にせぬ、心の呵責に神経昂ぶり夜もロクロク眠れぬ者ありというに、心広く体ゆたかにゆっくり安眠できる故モルヒネを呑む必要なく心身共に愈々壮健なるは重畳の至というべし、
天は満るを欠く厳父久しく病床に呻吟せらる、氏もとより至孝かかりしより此の方出て遠く遊ばず常に傍らに待して家事を見るの外他を顧りみず、昨年県会議員の改選に際し衆望に背いて強いて候補たるを辞したるもこれが為めなりと聞こえにき、氏既に父母に其の孝其の骨肉に対する友情慈愛知るべきのみ、試みに氏の家庭を訪れば、春は即ち梅花香り、秋は即ち菊花薫る、満堂の和気人をして欣美に堪えさらしむ
氏の性格おおよそ上述のごとくなるが上に氏は実業に熱心にしてなかんづく牛馬改良のために貢献せるもの年あり其の功績の漸く顕著なるは世人の熟知せる処なるを信ず、今や我が町会は刷新剤の中毒に依って身体不自由となりたれば町政などはこの末如何になり行くも知るべからず、頼むは神様仏様よりも先ず以って氏の如き資望あり手腕あり抱負あり誠意ある所の諸氏のみ、町民の禍福一に諸氏肩上係れり、別して氏は春秋に富む、庶幾くは我が八戸町為に否国家の為に原頭の老杉、巌角の古松厭はるる勿れ、至嘱々々

2009年4月16日木曜日

BeFMの終焉は自身の体質改善が出来ないため

落語の巨匠、五代目古今亭 志ん生って人が得意な枕がある。昔へびってのには名前がなかった。皆でなんだこいつァ、のたのたはいずりまわってやがって、妙じゃねえか、まるで屁のようなやつだ、屁だ屁だっているうちにこいつがビーって……。どうした話じゃないが、語ると芸だから実に味があった。
 ビーエフエムの話だ。こいつらがボタンの掛け違いをして、広域で許可を取らず、目先の欲で八戸単独で許可をとった。この先棒を担いだ奴が塚原。その後棒が河村で米屋の社長だ。昨日、この河村に逢った。塚原は葬式で来ない。自分の葬式じゃこれるはずもないが、そうではなかろう。
 散々にビーエフエムのことを書いてくれたが、それを読んだ人が全国のミニFMの防災面の活躍を教示してくれた。知らないことが沢山あった。これらの防災情報を積極的に展開すれば、八戸圏域には福音になる。今回の水道企業団の断水は人災、これの広報活動で1741万円消費した。応分の負担を県に求めると言うが、これは県だけに見当違いだ。これはそのうち解説する。
 さて、ビーエフエムだが、一旦緩急あれば広報活動には巨額な金が動く。防災システムが八戸圏域で一番遅れているのが今回の断水で露呈した。これを補うには新規設備だと役所は張り切る。デジタル化して10億円を防災無線につぎ込むというが、もっと安価で市民のためになるのがFM放送だ。これを生かす手がないかと思案。「はちのへ今昔」が当初考えた広域情報を流すなら、毎年三千万円を集められる、この金でビーエフエムを再建できないかと河村にあった。塚原は広域放送はできない一点張りだからだ。
 自身の考えを捨て、市民のためを優先するべきだが、知恵の足りない奴は得てしてこんなもんだ。これしかできない、これが最善だと思い込む。誰が? 自身がだ。だから人の話が耳鼻に入らない。愚かだ。他人の意見、それも行政の支援を得ないと立たない鼎の足が一本欠けたような現在のビーエフエム。自身で立とうとするなら、手段方法があろう。できないを言い続ければ、消える以外には手がない。五年前に塚原に言ってくれた。ビーエフエムを面白い放送にするにはお前自身が変わらなければダメだと。人間は無限の可能性に満ちる。だから毎日が面白い。ところが、自身の周りに垣根を張れば、自身が穴に落ちるのサ。
 役所もビーエフエムの体質が変わらなければ毎年五百万の補助はしないという。ビーエフエムに言わせれば放送料だというが、実際は補助だ。補助金はそれなりの使途を明確にすべきだ。商工会議所のような妾の手当てのような手の出し方はするべきではない。
 河村は言う。年間六千万円の経費がかかる。三千万じゃ足りない。が、経費節減をしなければ存続はない。この景気だ。広告費は誰でも惜しむ。それでも立てるのかね。三千万はいらないとヨ。なら、滅亡の道をたどらないように、塚原と河村のポケットマネーを精精注ぎこむことだ。電波は個人のものではない。大衆のもの。どこか間違っていないのか。
 世の中は自分が変われば、実に楽しいところだ、尻の穴の小さいことを言い、目先の金に追われると見えるものも見えなくなる。携帯電話事業に窮し、FMの話に飛びついて、これで助かったと思ったが、さらに追い炊きで金に窮するも己が撒いた種。身から出た錆だ。世の中は一寸先は闇だ。
 ビーエフエム開局時に八日町の橋本ヤエモンと叫んだアナがいた。穴があったら入りたいと言うアナ。これが女性だけに……。橋本一族には八戸に電気をもたらしたはちえもん、八右衛門という美男子がいた。やえもんなんてのはいないのヨ。八戸にいて八右衛門を知らないは聞こえません。こうした放送局、従業員もそれなら、経営者もこれだ。関西弁でどもこもならん。ドコモがならんじゃないヨ。いかに昔は携帯電話屋だったビーエフエムといえども。
 時代は刻々と変化、変わる時代に変わらぬ体質じゃ、まさに時代遅れを絵に描いたようなものだ。

2009年4月15日水曜日

八戸市議会史から

明治前期の県会
戸長選挙
廃藩置県により八戸藩は八戸県となり、それまで旧領主として藩政をとった藩知事は辞任、大参事がこれに代わる。八戸城下は藩政時代は御町奉行が統治責任者で町人、百姓を取締り武士は目付けが行う。県になてからは区別なく取り締まる。
八戸県は五県合併で青森県となる。
明治四年十二月二十五日支庁より御用差し紙につき出頭したところ、第一区戸長逸見輿長、同副新宮主、第二区戸長小山田源内、副岩泉市兵衛、第三区戸長百嶋平、副山本登弥太、第四区戸長松岡軍蔵、副河原木博一、第五区玉内寛、副野中連云々
大小区制
明治五年に大小区制がしかれ、青森県は十の大区となり区長がおかれ、それらがいくつかの小区に細分された。
第九大区は七小区に細分
第九大区 八戸    区長上杉吉寧
第一小区 舘・長苗代 戸長百嶋 平
第二小区 旧八戸   戸長大沢多門
第三小区 沼館・浜通り戸長木村興世
第四小区 大館・階上・類家戸長小向久貞
第五小区 中居林・是川・島守戸長平田吉博
第六小区 名久井・中沢戸長苫米地魯也
第七小区 剣吉・苫米地戸長高嶋壽名
区長上杉は八戸藩最後の大参事、もう一人の大参事大田広城は権典事として県庁入り。
小区の戸長はすべて八戸藩士だった。
区制の実情
徳川時代は地域を代表として代官の指令を住民に取り次ぐ役目を名主、その下には村落ごとに乙名という村役、代官…名主…乙名…百姓となっていた。代官は武士、名主以下は百姓で、名主は選挙で選ばれた。
大小区制の小区の戸長は、この名主にあたり、その下の乙名は惣代人と称した。
誓書
今般拙者どもより惣代人として貴殿方を選挙し、当明治十年六月より向こう十二年まで三年間、当村において土木起工、金穀公借の節は、惣代人として保証し、かつ村内の利益保安の儀につき、その筋よりお尋ね等あれば拙者どもに代わり、見込み申し立て方、しかるべくお取り計らいたく、これに後日異存は申さないことを堅くお誓いします
第九大区六小区平村
明治十年六月 住民及び土地保有者二一五名連署
小萩沢久作殿
荒谷弥八殿
砂庭清三郎殿
前書の趣、拙者共立会い承り届候也
              区長岩泉正意
              戸長苫米地魯也
この文書は村の惣代人は住民や地権者から選挙されたが、それには区長、戸長が立ち会った。村一切の代理を委任し異議は言わないとある。これは村人の利益代表ではなく、統治機構の末端である。大小区制は藩政時代そのままだった。
明治九年の県会
初めての県会は明治九年二月二十五日青森で開催。議員は各大区長と学区取締、名望人が一人づつ、それに各小区の戸長で構成され、総員九三名。議員の中、名望人だけが選挙された。
第九区名望人 
一番札 中島渚
二番札 野崎和次
三番札 大沢多門
議員として出席するのは一番札のみ、二番以降は補欠で一番不在などに順次出る。
中島は八戸藩江戸家老、のち八戸藩初代大参事、明治四年廃藩置県では総括責任者。
県会制度の改正
府県会規則の制定
明治十一年各県の行政にあたる県令を集め東京で開かれた地方官会議で、いわゆる「新三法」が決定。この中に「府県会規則」があり、議員は郡から五人以内を選挙によって選出。議会は県費のうち地方税で負担する経費について、予算額と賦課方法を議定するということになった。
 議員を選挙できる選挙権は二十歳以上の男子、郡内に本籍を有し地租十円以上を納める者であった。

2009年4月14日火曜日

何か変だぞ八戸市役所

日本は法治国家、法を守ってこそ我々は守られるもの、しかし、地方自治体が法を守らずして、我々市民にのみ方を守れは不当。
一、 固定資産税の課税は、地方税法を守り、市内の固定資産を総て市役所職員の足で廻り、課税が適当か不当かを確かめてから課税せよ。
二、 地方自治体が決定した条例を守れ、市民は条例を守らなければ処罰を受けるが、自治体がそれを守らないは誰が罰する?
固定資産税については再三、再四書いてきたので、聞き飽きた読み飽きた人もいるだろうが、いよいよ切符がくる。家が壊れた傾いた、路線価が下がったのに全く反映されていないなど、不平と不満だらけだろうが、役所に足を運ばなければ何にもならない。
去年、資産税課のカウンターでごねてる親父がいて、「あなたより私の方が市長と懇意だ」と言ったが、「何か役に立つかも」と名刺を渡した。「ハア」と受け取ったが、苦情の言い方、文句のつけ方、もう少し言えば喧嘩の仕方にはコツがある。すべからく長いものには巻かれろの諺もあり、それはそれで正しいが、それでは世の中少しも良くならない。
 筆者が言うのは自分の固定資産税をまけてくれ、という尻の穴の小さい話ではなく、課税方法に間違いがあるから、不当に取った分は返却せよと言う。全市民に課税したから、その分総てを返せ、それから正しく課税し直せと言う。
五億円をかけて不用な航空写真は撮るな、その金は固定資産を一軒一軒調べる調査費に使え。その調査は八戸市民のアルバイトでまかなえ。五億円を中央の業者に支払うなら、八戸市民に還元せよと叫んでいる。
航空写真は十月撮影、地方税法は課税年の三月までに調査せよ。
これ自体で違法は間違いない。自治体に裁量権は勿論ある。しかし、違法、あるいは法を遵守せずに勝手な解釈はできない。
A県ではこうでB県では違う解釈では法の一貫性がない。そのため国が法を徹底させるのだが、地元住民がその違法性に気づかなければ、やりたい放題でしかない。
我々市民は役所のすることに間違いはないと思い勝ちだが、役所も間違う、あるいは信用できないと批判の目で見ないと、見えるものも見えなくなってしまう。
今ライブドアの堀江容疑者が東京拘置所に収監されているが、それは証券取引法違反容疑だ。
何人たりとも法に違反すれば逮捕、拘留される。
地方自治体の制定した条例も同じ。
特殊浴場、つまりトルコ風呂、昨今はソープ・ランドと言うが、これも岩手県は許可、青森県は不許可。このため八戸ナンバーの車が、岩手県のその場に多いそうだ。筆者は行ったことがないのでよくわからん。
A地区でOK。B地区はダメも妙なものだ。岩手県人がスケベエで。青森県人は去勢された犬のように従順とも思えない。老人になって、欲望から蹴落とされた人間は、人畜無害で計算にも入らない。ご破算で願いましてで、人生のごわさんが近くなれば、人間が枯れて来る。丸くなったなんて言われるのが好々爺、ところが筆者はそうじゃない。今回気づいたのは市長が旅行に出る。その時カバン持ちの秘書が同行。市長は条例でグリーン車に乗れる、ところが秘書は乗れないが乗っている。これは条例違反で、グリーン車料金は支払う必要がないのに支払ったと、八戸市にその銭を返せと噛み付いた。
吏員が不正に金を使い、それを一年以内に発見した場合に限り、監査請求ができる。
これを利用したナ。
この監査は定期的に、今度は○課を何月何日に監査するよと、予告編をしてから踏み込む。そして帳簿を調査だか検査だかをなす。不正があれば糾すそうだ。今までに見つけた、あるいは見つかった事例を寡聞(かぶん・見聞の狭いこと)にして知らない。
この監査室は市役所旧館の五階にある。数人の吏員が担当。ここに容疑事実と、それを証明する資料を添付。これが存外難しい。内部告発でもなければ、なかなか不正資料は提出できない。それを一年以内という決められた期限が更に追い討ち。
大体、本気で解明する気なら、五年の期間に変更すべき。
条例では、グリーン車利用は特別車と書かれている。
(鉄道賃)
第14条 鉄道賃の額は、次の各号に規定する旅客運賃(以下この条において「運賃」という。)、急行料金及び特別車両料金並びに座席指定料金による。
(1) その乗車に要する運賃
(2) 急行料金を徴する列車を運行する線路による旅行の場合には、前号に規定する運賃のほか、急行料金
(3) 市長並びに助役、収入役、区長、常勤の監査委員及び教育長(以下「助役等」という。)の職務にある者が特別車両料金を徴する客車を運行する線路による旅行をする場合には、第1号に規定する運賃及び前号に規定する急行料金のほか、特別車両料金
つまり、三役の外に監査委員と教育長だ。議会の議長の名がないから、議長もグリーン車には乗れない。この議長は調べていないので暇が出来たら調査。(議員は特別職で別勘定)
市長の秘書名は書いてない。つまり、秘書がグリーン車を利用し、その料金を八戸市が支払ったのは不当だ。その金を返させろという書類を作成し、証拠の書類としては、人事課に直近の市長の行動に随行した秘書が消費した旅費の明細を開示請求した。
要領明記
一条例違反と思う
二その容疑事実の確認
三そのため総務課に出向き、当該課、つまり秘書の旅費を支弁した事実の書類開示請求
四それをもとに監査請求用紙を提出
 ここからは監査室が請求が妥当かを判断し妥当となると、監査委員を集合させ、監査が開始となるようだ。ここからいきなり歯切れが悪くなるが、それは、監査委員がどのように監査をするのかは、筆者が監査委員ではないのでわからないからだ。
ともかく、この監査委員に対し意見陳述はできる。するか、しないかを監査室の吏員が聞くので、陳述したい、あるいは、どんな人が監査委員か顔が見たいなどの要求、要請、欲望を持つ人は陳述を請求するといい。そして結論が出ると結果が郵送される。結果は「本件は請求理由なし、棄却」
棄却とは、申立てについて審理のうえ理由がないということだ。
理由は
(旅費の調整)
第24条 旅行命令権者は、旅行者が公用の交通機関、宿泊施設等を利用して旅行した場合その他この条例又は旅費に関する他の規定による旅費を支給した場合において、不当に旅行の実費をこえて旅費を支給することとなる場合には、その実費をこえることとなる部分の旅費について、旅費の全部又は一部を支給しないことができる。
2 市長は、前項の規定の統一ある適用を図るために、同項の規定を適用する場合に関する統一的な基準を別に定め、旅費の全部又は一部を支給しないこととする場合には、当該基準によるものとする。
3 旅行命令権者は、旅行者がこの条例の規定による旅費により旅行することが当該旅行における特別の事情により、又は当該旅行の性質上困難である場合には、市長が定める旅費を支給することができる。
だと、何だこれは。解説は次号

2009年4月13日月曜日

白銀漁業界の長老、知恵のかたまり越後松助さんの話から

越後松助さんの話から
白銀の商業
白銀の商業といっても、湊や鮫のように出船、入船に賑わった村落と違い、その昔から扇ヶ浦の中心として住まいを高台に求め、浜と畑を朱として生活してきた。明治になり新道(現在の下夕通り?)が出来てから、浜の魚も一段と活発になり、それに需要が増した。三島川を中心として主に西側に八戸から商人が移転してきた。
魚の行商は天秤棒にザル、魚を入れて浜伝いに湊へ、それから八戸へと行商するコース、西の平を下り三島神社前を通り浜崖にかかり、岩淵通りから現在の梶野医院前に出て汐越に入り、上の山を通って、湊橋を渡り小中野~八戸へと肩で担いで行商したのが、新道によって一直線に湊本町に出て、橋を渡って行商、その後間もなく魚類の卸問屋も三島周辺に出来、その他菓子屋、鍛冶屋、屋根屋、金物屋、煙草屋等の店が点在。町並みが出来たのは明治の末、大正には大きな買い物は湊、八戸へと足を伸ばしたが、こまごましたものは白銀で間に合う。祝儀、佛祝儀の目出鯛やまんじゅう、ラクガン等も武尾さんで作り白銀村の必要に応ずるようになり、また鍛冶屋の橋本、魚の問屋の長谷川さん、雑貨商の田村、大橋、菓子類の南山さn、薬屋の戸狩さん、下駄屋の石橋、屋根屋の長島、松尾さんというように他の店も続々と中心ばかりでなく大沢地区、下夕通り地区(清水川)にも大塚、淡路商店と出来、店屋さんも出来てきたのです。
大正十一年、浜の漁の需要に応え八戸町の橋本家では現在地に八戸製氷株式会社を創立させ、白銀の名物としての氷会社となって現在まで白銀農漁民、否湊、鮫の人々に供給した。長い間の夏季には特にその喉をうるおした功績は大なもので、その恩恵を浴した人たちの多くは、今は草葉の蔭で今日の変貌と往時に感謝しておる事でしょう。
又一つ忘れることのできないのは、昭和に入って間もない頃出来た三島の清水で作った清涼飲用ラムネです。製氷会社ができて間もなく橋本音次郎さんに、大橋晋吉さんや武尾三郎さんらが働きかけて出来たのが白銀ラムネ工場で、三島の湧壷から五、六十メートル下の処に工場を建てラムネを作り一般に販売し、白銀海水浴場に来たお客様や農漁民に重宝がられ、時折麦刈り時の暑い盛りには各家々の女達が検査から外れた、玉落ちしたのを一升瓶や手桶に買いに行き、畑や麦の収穫時に喉をいやした記憶は五、六十代の人なら、よもや忘れはしないでしょう。
 次に前述のように農漁村であったが故に現在でも労災病院前に唯一軒福美屋旅館があります。明治の末頃といわれる三島館があり、主に海水浴客が泊まった宿屋が一軒ありました。今の野里食堂さんの処です。
昭和の初期頃、大相撲の巡業で前頭以下の相撲取りが宿泊したり、海浜を散策したものですが、湊や鮫の如く人の出入りの少ない白銀は、旅籠も営業できないような物資の流通においても素通りする町であり、現在もそれを物語る様に港も鮫、湊に片寄って白銀浜は必要度には変わりないが商的な繁りは余りありません。
次にやはり、ほとんどの人に忘れられようとしている建物は、現在の白鴎保育園付近に三島倶楽部(土地は金入)(金入さんの肥料倉庫)が間口六間位、奥行き十二、三間に舞台があり大正、昭和初期まで地方廻りの旅役者が芝居をしたり、えんぶり組(白銀)一般に公開したり、村の集会場として、この昭和十年頃まであったと記憶しています。今日でこそわが家でテレビドラマを見る、また世界のニュースが送られてきますが、昭和初期までは映画とて弁士付きの映画であり、その他は別稿のようにえんぶり、権現舞とその三島倶楽部で行われた芝居見物が娯楽であり、それも年に何回と限られた数でした。三島倶楽部は今の五、六十才以上の人たちの恋の囁き場でもあった訳です。
○ 白銀の網大工
地引網が網の種類で一番早いのではないか、それ以前は網といわれる位でもなくも、掬い網か、また、小さな曳き網如きものもあったかも知れませんが、小魚は、それは小さな網でも多少は獲れるのですが、やはり、浜で生活するようになり、鯨が鰯を追い、岸にその魚群が色をなしカモメがそれを追いかけ、夜ともなればほんの波打ち際まで鰯が入ってきて、それを捕獲しようとしたのが地引網だと思われます。
その網は最初は関東、関西をみならい購入して、この白銀浜でも使用するようになり、また、それが破網したり、耐用年数がきて、不使用となれば、必ず別の物を仕立てて漁獲してきたと思います。その網を作るに麻が撒かれ、糸にして、網目にして網を仕立ててきたのです。それが明治、大正、昭和の入ると量が何十倍も必要となり、網は専門の業者が作るようになった。
 白銀では軒末吉さんが網大工としては早かった。明治四十年頃から専業で弟子を養成。道具は簡単なもので、アバリ、鋏、網切り出刃くらいのもの。技量は大工の名にふさわしく優れたものだった。
軒さんの弟子 佐々木福松(ハマコ)、高橋石太郎(大久喜)、高橋兼松、軒丑松(末吉長男)、佐々木虎吉(寺小路カマド)、佐々木福蔵(イヘ)、佐々木鉄五郎(熊五郎カマド)、中村高明(甚五郎様)、大館岩蔵(ヒノミ)、佐々木要次郎(赤市カマド)が昭和十五年までの大工さんとして活躍した方々です。
続・名前の出た子孫で写真を持つ人、乞う連絡

2009年4月12日日曜日

東奥日報に見る八戸及び八戸人 その一続

○ 北寄貝 過る六日、七日の両日は殊のほか降雪にてこれにつれて八戸北方の海岸にてホッキ貝山の如くに寄り盛岡地方よりも買込人ありて近来珍しきホッキ貝の大漁ありたり
○ 鯡船(にしんぶね) 北海道より生鰊を積みこみたる汽船は本日鮫港に入津(にゅうしん・船が港に入る)せり、其の値段はいまだ決定せざるという
● 八戸通信 四月十日発 (昨日の続き)看守押丁の処刑 かって報道せし八戸監獄を脱せし囚徒事件により去んぬる三月二十九日看守両名は免職となり、同三十日弘前始審裁判所八戸支庁に於いて公判の末、看守の内一名は罰金七円、其の外押丁一名は罰金五円の申し渡しを受けたり
○ 戸長役場 は昨冬より今以って午後十二時頃まで夜業せられたる甲斐ありて事務の整頓申すまでもなく新制施行に際し事務引継迄も出来居ることにて、今に町長新選になるも一切不都合なしという
○ 町長候補者は兼ねて私選せし通り元戸長を挙げることにて助役には町長にも譲らざる老練の人を選ぶべしと目下協議中なりとのこと
○ 八戸産馬組合長の選挙会は四月十日同事務所に於いて開札せられしが、其の様子を聞くに本年の選挙会は非常に競争ありて急に身元を造らんと十五頭の馬を借り入れ等随分発狂者の如き有様なり、而して其の競争者はどれも無給料にして当選を望み居りしものあれば他に香ばしき所ありてのことか、いずれにしろ株主中は一同心配し居るものなり
● 八戸小中野通信 自治制 町村分合自治制施行の件については小杉好效氏は旧戸長兼指命官の名義を以って新旧の事務を処弁し日夜●掌頗る繁劇(はんげき・非常に忙しいこと)の容子村会議員の員数は十二人となせり
○ 輸出 八戸及び本村近傍にて伐採せる桐五、六千本(凡そ六百石弱)を過日汽船に積み込ませ鮫港を経て東京へ輸送せり、なお数千本を買い求め続々輸送するの見込みなりと
○ 輸入 北海道より初ニシンを積み込み鮫へ風帆船四隻倭般三隻にして而して最初の買値は壱丸(二百尾)に付き八、九十銭より七、八十銭までに売買せしが、現今は大に下落し壱丸につき五、六十銭より四、五十銭までとなれり。
○ 定期船 函館八戸間の定期航海は本月より毎月二回即ち十日二十五日の両日を以って渡航を始めることとなりしか初度の航海即ち本月十日には錦城丸という汽船が午前に函館より入港し午後には直ちに帰港する予約にて既に取り扱い人本村回漕店大久保幸助氏は之を各地に広告し乗船切符も売り込みたる程なりしか、如何なる事情にや、当日に至るも汽船の入港せざるのみならず、予定の錦城丸は何か差し支えを生じたるとか、急に北島丸を代船となすべき旨にわかに広告せしが、その後五、六日を経過するも更に汽船の入港をみざるしに、然るに本月十五日の夜、北島丸は入港、翌朝午前函館へ向け帰港、また、兵庫丸は本月十七日東京解纜(かいらん・ロープを解く)同十九日鮫港着同二十日函館へ向け出帆すべしと広告を為せしも皆初期の不始末に懲りて乗船を見合わせて却(かえ)って路を青森に取る者多し
○ 教育 本村は頗る学事熱心なる所なり而して村民の子女概ね学校に入りて普通の教育を受け傍ら遊芸を伝習するを以って常とす、去る十九日湊尋常小学校二十日は簡易小学校に於いて春季の大試験を執行し父兄親族の参観を許したり
○ 宗教 村民は専ら仏教のみを信仰し、かって他教のこの地に入りたることを聞かず、其の宗旨は浄土宗、真宗、禅宗、日蓮宗にして中浄土、禅の両宗は之が過半を占むるものの如し
● 八戸通信 気候は暖和にして華氏の寒暖計四十度より五十度の間を昇降せり、長者山の桜並びに松館の臥龍梅も既に蕾を含みたりと
○ 潮干 本月十四日は潮干狩りとて例年浜通り鮫、白銀近傍へ出遊びするもの夥しく中には八戸学校の生徒同義塾の書生及び官吏、教師等の諸氏続々運動せりと
○ 川尻改良 は深く村民の希望を属する所にして、今其の目的を聞くに元来湊川(小中野村新町と湊村浜通りの間を流れる大河なり)は其の川尻浜通りなる舘鼻下にありて水頗る急激なりしか、去る十一年の秋大洪水の為、川口を変じ爾来俄かに流勢弛緩河水の減少を来たせしより従来の如く自在に舟棹を通するあたわざるにより村民合同の力を以って河底の土砂を掘取り更に河口を旧所に開通して船舶の出入りを自由にし以って大に河海運漕の便宜を起こさんとの趣意なりと
○ 八戸警察署 特務巡査たりし本県士族蛇口幡太郎氏は今回願いによりて其の職を免ぜられたるに付き在勤中の同僚諸氏が慰労のため北越亭に於いて宴会を開きたりと
明治二十二年五月五日
● 三戸郡八戸町会議員
去る一日同町第二級選挙会を開きし処左の通り十二名当選になりたりと
浅山正美 泉山吉平 福田祐記 石橋萬冶 村井幸七郎 山田文次郎 橋本文助 奈須川光宝 朝水礼次郎 加藤萬吉 橋本和吉 源晟
● 又去る二日、同町第一級選挙会を開きし処左の通り十二名当選になりたりと
宮原直衛 成田芳雄 富岡新十郎 永崎嘉八郎
石橋甚三郎 大久保平蔵 上野葆真 関野市十郎 西舘忠昶 伊藤七六 工藤新助 山本勝次郎
● 八戸通信 五月四日発 村長候補者 旧中居林村より分裂なりたる是川村の村長候補者は同村簡易小学校教員市川武雄氏にて助役はこれまで旧役場の給仕たりし滝沢潔なりという
○ 徴兵参事員 の事務は郡役所となし五戸、三戸は分会を設けたるより両地方においてはやや不満をいだき居る模様あり
○ 旧売市村外八ヶ村 村会議員は佐藤正弘外十一名にして村長は旧戸長なる某氏が椅子をしめんと奔走中なりとの評判なるが、同村はかつて分裂等までも騒ぎたてたる程なれば容易に候補者たるは如何のものにや
○ 衆議院議員候補者 当三戸地方においては医学士大田弘安氏を同議員の候補者たらしめんと或る部分の人々が尽力中なりという
●小中野村会議員 三戸郡なる同村会議員は去る五月一日の選挙会にて当選せられたるは(一級)佐野貫一 村山仁平 長畑徳十郎 藤田宇吉 
中村栄吉 石塚勝之助 (二級)亀徳鶴壽 大久保弥三郎 細越清五郎 大崎市太郎 小笠原藤平 中村浅吉当選せられしという
● 私立消防組 三戸郡八戸町大字二十八日町及び大工町に於いては百嶋鼎1氏初め石橋甚三郎、石岡吉十郎等の諸氏相図り計画せし私立消防隊組はかつて其の筋へ出願の処、去月六日認可になりしかは、この程其の組織上について協議中なりという
● 八戸通信 五月九日発 農業 三戸郡鮫村は戸数二百戸に近くして村民は耕地少なきところより常に漁業に従事して農業にはすこしも関せざる有様なりしが、同村の豪農島田幸助、松橋兵六の両氏は其の耕地の僅少にして農業の奮わざるを憂いかつて官有原野の内不用に属し居る分を開墾地に払い下げを受けて村民共の開墾地と定め熱心に尽力農業を勧誘したれば村民共も非常に奮起して盛んに耕耘に従事しおりしに、如何なる都合起こりしものか、惣代人は去る十五、六年の頃、該原野なる開墾地を禁伐林に編入したるよしにて今まで村民が耕耘に従事して幾多の村益を図り居りたると一朝の水泡に帰し開墾地として払い下げは勿論其の出入りさえ禁ぜらるる如くに立ち至れば同村農事篤志家は非常に落胆し居れり
○ 米相場の下落 八戸町の米相場は仙台米、越後米等各地より輸入あるためか一円につき白米一斗四升位にて値段は目下一斗八、九升に下落せり、この勢いにて行かば二斗位にも下落するならんと町民どもは取り取りの話
○ 八戸皇道学会 八戸にては神官教導職諸氏が申し合わせ会員およそ三十余名にて神道を拡張せんと同町某神社内に於いて毎月第二日曜日を以って同学を講究致し居りしか追々会員も増加しついては来る十九日には大会を長者山新羅神社社内に開くよしにて目下準備中なり
○ 浄土宗小教会の会議 去る六日より八戸来迎寺にて開会せし同会は去る八日閉会せり、尤も(もっとも)番外には同寺住職にして議長は浄安住職之をつとめ議員は各寺並びに檀家中より一寺につき二名の出席にて都合二十七名なり
●舘村村長候補者 佐藤正弘氏なりと又五戸村長候補者は小熊識三郎氏なりという
● 舘村会議員 第一級には西浅吉 小笠原茂助 伊東三太郎 三浦岩松 杉本亥之松 坂本独卯之助当選せられ、第二級には佐藤正弘 小向直次郎 木幡晴八郎 出町七郎 佐々木孫四郎 三浦福松当選せられたりしと
● 湊村会議員 第一級には吉田源五郎 吉田第吉 小平直吉 佐々木喜兵衛 神田次倫 高橋兵助当選せられ、第二級は佐々木源助 佐々木辰之助 荒川勘之助 清水太郎 鹿窪中字 笹本孫右衛門当選せられたりと
● 三戸郡鮫村会議員 第一級には高橋勝太郎 小清水由太郎 高橋新助 荒木田由蔵 長谷川権之助 松橋兵助当選 第二級 中常吉 磯島栄太郎 高橋初太郎 高橋勇次郎 高橋安兵衛 山田金蔵当選
● 八戸通信 塵捨て場 売市村の溜池は一昨年来おおよそ七、八百円を費やして築造せしに堅牢に出来して昨年の如き旱魃の際にも水十分にして耕耘に事欠かず誠に耕作上幸福なることにてありしか、今度八戸町にて右溜池の水門に塵芥を捨てることにて漸々堆積し且つ堤上に於いて塵芥を焼いて焼き肥やしを作るなど、為に堤防欠け崩れ水門も是が為に填塞(てんそく・ふさがりつまる)せられて水元も不自由かつ夏分に至れば臭気甚だしくして時疫の流行もこれなきを保うずべからず、自然衛生上に取りても大害を与うべければ、其の筋にては速やかに他に取りのけさするように致されたきものなりと村民共は一同に望みおれり尤も八戸町には塵捨て場という標木を建て設のあるにもかかわらず、当村の溜池に捨てるとは誠に不都合の至りならん、また、糠塚村道路中にある塵捨て場は人家に接近して其の不潔申すばかりでなく且つ去る五日のこととか焼き肥やしの火が強風のため岩泉氏、石橋氏の宅に飛散し一時困難を起こせしと人家接近の場所にては至りて危険の事と考えれば宜しく其の辺に取締をつけざれば異日不測の変事を醸すなきを保うずべからざるなり
● 是川村会議員 三戸郡なる同村会議員は去る一日の選挙会に於いて当選せられたるは(一、二級共)北城茂右衛門、上野太右衛門、是川佐次郎、下澤万次郎、阿部浅吉、田端伊勢次郎、田中倉吉、水野松五郎、中村小助、中山秀之助、下館吉次郎、上野孫助の十二氏なり、而して去る十四日より村会を開きたりという
● 市川村会議員 一級吉田喜平冶 吉田源八 木村孫太郎 木村栄太郎 鈴木栄次郎 川村弥衛 二級 吉田直吉 野口勇助 鈴木徳也 浜金八 鈴木与衛 鈴木佐太郎の十二氏なり
● 五戸村会議員 一級 菊池萬之丈 三浦重吉 川村平蔵 江渡惣衛 鳥谷部健之助 藤田善五郎 二級 三浦万平 江渡又次郎 櫛引慶太郎 金子利七 中市寛蔵 小熊織三郎の十二氏
● 町会議員の再選 三戸郡八戸町会議員は去る一日選挙せられたる内、宮原互衛氏が六十以上の高齢なるを以って事故を申し立て辞選したるにより去る十四日右補欠員選挙会を開きたるに高点者は稲城篤実、島守定正の二氏と決まりしも同点なるをもって更に年長を取り稲城氏は選挙せられたりという
● 八戸通信 五月十六日発 宴会 立岩三戸郡長を始、浅山、石橋の諸氏は過日長者村大字石手洗村総本家岩館善次郎宅にて宴会を開催なされたり
○ 分離願い 石手洗村は長者村より分離せんと過般願書を差出したるよと
○ 村会 是川村会は去る十四日開会せしか村長は有給に決せりという
○ 校舎処分会 八戸方面七十余ヵ村連合書籍館及び高等小学校舎処分会は近日中開催の予定にてこのほどそれぞれ委員を選挙せられたり
○ 商況 当時金融繁ならず閑ならず先ず通常の取引なり、利息は商業社会の取引高きもの日歩四銭二厘、低きもの三銭五厘なり、現今汽船入港頻繁なるが、積荷は多く大豆にして伊勢、四日市、並びに東京へ向け輸出せり而して当地主なる物産は鰛〆粕並びに干し粕並びに干し鮑割貝にして陸産物は大豆なり通常銀行なども上半期より下半期は金融よろし是は下半期には海産物多く輸出相成り諸国より商人入り込むにより随いて金融上大に影響を及ぼし諸商業者多少の利益を見る銀行の如きも上下両期に於いては金銀出納著しく差異の生ずるをみる当地の他国に対する金融は多く東京より借り青森函館に借りるを例とす、東京は商業の中心なれば諸仕入物は多く彼に仰げども当地よりの輸出物は之に平均せざるによる青森は商業の取引はまれなれども官金為替は当地よ支払うものは多く又函館は当地より出稼ぎ人あるによりて昨年下半期頃は小札銅貨払底にて取引上非常に困難を極めしか、近頃に至りては小札は勿論銅貨等いずれも不自由を感ずることなく、殊に銀貨もボツボツ見受けられる
● 五戸村通信 五月二十八日発 政治思想 を有する人民皆無と言うて可なり、全体この辺の人民は質朴にて万事官の命ずる所に随う
○ 旅人宿 を営業するもの五軒中尤も評判良きは浪岡喜六方(「はちのへ今昔」知恵袋・五戸安藤陽三氏曰く、これは八戸の浪岡旅館と縁戚)にて家の構造も中々立派にて其の体裁と又青森などの旅人宿に劣らざるの如し
○ 公立五戸病院 伊藤院長赴任以来非常の繁忙を極め院長以下諸員五名にて患者に接しおれり、院長始め患者を取り扱うに親疎の別なく親切なるにより頗るに人民の信用を得、当時来診患者日々三十人位なりという
○ 貸し座敷 二軒あり娼妓四、五名にて毎晩遊治郎(あそびにん)の舞い込み多く頗る繁昌せりという
○ 商況 一体上景況とも申すべく、金融も宜しき方なり、当時白米上等小売十銭に一升七合五夕同大豆三升一、二合同小豆二升五合同精栗二升ぐらいにて一俵の値段右に準じ定めおるという
○ 混堂(湯屋か?) 一軒あり、このへんにては頗る清潔という可なり浴客は戸数に比較して少なき方なり
○ 五戸警察署 にては巡査巡回の線路各所の押印箱を提げ置くが何者の悪戯か、右の箱を盗み取りたると両三回ありという
● 村長及び収入役 三戸郡下長苗代村長山内光氏は辞選せられ川勝隆邑氏が当選せられたりと小中野収入役は酒井大五郎氏、舘村収入役は木幡清八郎氏なりと、又小中野村書記は森貫一氏、舘村書記は井川元壽、沼館善五郎村上岩太郎の三氏なりと八戸通信 六月十八日発 金欄会 三戸郡三戸町の同会は毎土曜日三戸小学校その他近在学校教員諸氏の集会にて三戸小学校に開く其の趣旨たるや学校授業上の事並びに数理法教科書その他教育に関する新聞雑誌等も取り寄せおるという○三戸町近況 目下養蚕は概して三眠以上なりしが気候順なれば意外に捗り且つ桑葉も廉価なりという○田植え は目下非常の繁忙にて八分通りは植付けも終わりたり○病院 八戸町にては先年公立病院の廃せられたる以来今淵正苗氏が開設にかかる私立病院あるのみなるが二千戸に近き八戸町にてとかく手の廻り兼ねる有様なれば昨年有志協議の上、大病院を建築せんと相談、諸機械購入のため某氏に金を渡すも行方しらずとて

2009年4月11日土曜日

東奥日報に見る八戸及び八戸人 その一

一八八八年(明治二一)十二月、東奥日報が呱呱の声(ここのこえ・産声うぶごえを上げる。転じて、物事が新しく生れる)をあげた。
● 読売新聞は子安峻・本野盛亨らにより一八七四年(明治七)創刊。
その記事から八戸及び八戸人が記されたところを掲載し、活字になった文献として整理を開始。今回は創刊号から、明治二十二年六月まで。
● 又強盗、上北郡百石村より三戸郡尻引村の原中にて強盗に出会いたることを前号に掲げしが、又報なる所によらば、尻引村から寺館村の鉄道線路(明治二十四年九月一日・上野~青森間全通)中を富樫組の飛脚が五十余円の金を持ち乗馬にて通行の際、突然両人の土方らしき者顕れ出でて飛脚の足を取り馬より引きずり様に懐中へ手を差し入れ財布を奪いとらんとする故飛脚も一生懸命(本来は一所懸命・賜った一ヵ所の領地を生命にかけて生活の頼みとすることだが明治二一年には一生懸命とつかっている)に働き傍にありあう木材にて払いのけ払いのけ一金も失わず無事に其の場を立ち去りて八戸町の富樫組に届け出でたりという、その場所は前号と少し異なれば或いは一事両様なるか知らねどもとにかく物騒のことなり。
● 八戸通信 二十三日発 気候 雪は旧冬同様にて少しもなく且つ十五日夜には大雪にて路上は氷結し歩行は大困難を感ぜり十六日は又好天気にて去る十七日とりは近年稀なる寒気にて寒暖計は二十度を降れり。○農家の心配 右の如く寒気の厳しきは甚だなれども降雪の不足なるに肥料運搬に困難なるのみならず春耕の際用水不足を感ぜぬかと農家の配慮一方ならず○農家の景況 本年は鉄道工事の為農家にまで融通の影響を及ぼし例年になく嫁婿の贅沢を飾り通年なれば木綿にて済むべき者も本年は絹を用ゆる如き有様故呉服店も随って繁昌致し居れり
● 青物市場 八戸市街も鉄道工事の為に繁華に赴きたるのみならず世の進歩は自然諸品の供給需要頻繁なる為商売も活発の色を現したるは争うべからざることにて同地寺横町河野市兵衛氏は同地に青物市場なきより今般該市場開設のことを出願、許可を得てこれより開市したれば一方ならぬ地方の便利なりという。
● 八戸通信 二月九日 町村制度研究会 当郡各村落に於いて該会を開き新制度に関する利害得失の研究をなし、村長の私選等もほぼ内決せし由なり、中でも関心なるは小中野村は亀徳鶴壽、細越清五郎、森幹一、佐野貫一、小島穂積等の諸氏を始め有志者集合毎二夜隔てに研究会を催し中々盛大なりという○八戸監獄 は在監人平常十四、五名にて二十名を越えざる都合なるに昨年秋頃よりして追々囚人増加して目今(もっこん・さしあたり)は五十名に近づきたり、若し明治十六、七年の如く増加して監獄費を増加したらんには地方税の困難を来たしなるべし、斯く囚人の増加するは如何なるものにや
(鉄道工事に伴い市外の人間増加で囚人が増えたのか、それにつけても明治十六年頃にも増加ありという。ここが不可思議、また何かわかれば追記)
● 八戸の祝典 去る十一日(明治二二年一月のこと・大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令・皇室典範制定)憲法発布に付きて三戸郡八戸町に於いても千載一遇の大典なるを以って又、有志者中、奈須川光宝、浅水礼次郎、石橋萬冶、関茂春諸氏の発起にて八戸町戸長役場内に開き会するもの百余名にして戸長稲城篤実氏が開会の祝辞を述べ次いで夏目助太郎(後、養子になり浦山姓を名乗る)等数名の祝辞演説ありて、実に非常の賑わいにてありしという
● 八戸通信 二月十九日発 商況 一般に景気稍好き方なりなかんずく酒屋、木綿屋、米屋旅籠屋等なり然して、米は鉄道工事の為非常に欠乏を告げ従って日増しに値段上がり消費者やや困難なりといえども村方にては一体銭の廻り良きより穀物を売り出さざるため一層値段を増すの原因となれり、又輸出せるものは粕は旧年甚だ不足故目今大豆のみなり、、之れは出船毎に多少の積み出しあり
○ 汽船は平均一ヶ月多きは五、六回少なきは二、三回位の入港あり、之も鉄道用品の為、平年より繁き有様なり
○気候は例年に比べて地上雪なく、日々天気温和、例年なれば未だ寒気甚だしく積雪深きに本年はしからずという
● 警世小言
八戸小売商人
銀行へお願いと言えば金を借りたいと言うのかと思われるかしれませんが、全くさにあらず一体我々八戸にては大きな紙幣が沢山ありますが、十銭、二十銭、五十銭の小銀貨、小紙幣が乏しくして銀行へ小紙幣と取替え方依頼せば一円に付き二銭五厘、三銭の切り賃を取られるは、あえて不当だとはいいませんなれど、商店にても五十銭以上買わざれば一円へ返りを出さぬ程にて売り外し等のこと往々あるより不便、不都合少なからず今回も憲法発布に付き八十歳以上の者には養老金として下賜せらるるに際し小紙幣に不足して戸長さんが各銀行及び豪商店毎に駆け回っても小紙幣を見つけかね戸長さんが大分苦慮せしよりなるがあらためて銀行へお願い申します、何とかして小紙幣なり小銀貨なり八戸へ御廻しになるよyなれば人民の幸福は勿論商売の機関なれば宜しくお察しくだされたくはいかがでございます
● 新町村分合名
三戸郡
八戸町(八幡町、堀端町、常海町、窪町、番町、堤町、本徒士町、徒士町、稲荷町、新荒町、荒町、上組町、上徒士町、上組町、二十六日町、二十三
日町、十三日町、常番町、本鍛冶町、鳥屋部町、大工町、寺横町、山伏小路、鍛冶町、十六日町、六日町、三日町、八日町、鷹匠小路、長横町、岩泉町、朔日町、十八日町、二十八日町、十一日町、下大工町、塩町、柏崎新町、下組町、柏崎村)
○ 長者村(類家村、田向村、石手洗村、中居林村、糠塚村)
○ 湊村(浜通村ノ内、湊、同、白銀、大久保村)
○ 鮫村(浜通村ノ内、鮫、同、持越沢、同二子石、同白浜、同深久保、同種差、同法師浜、同大久喜、金浜村)
○ 大館村(新井田村、妙村、十日市村、松館村)
○ 階上村(田代村、晴山沢村、平内村、鳥屋部村、金山沢村、赤保内村、道仏村、角柄折村)
○ 舘村(田面木村、売市村、根城村、八幡村、坂牛村、櫛引村、上野村、沢里村、沼館村)
○ 下長苗代村(河原木村、石堂村、長苗代村)○上長苗代村(尻内村、大仏村、花崎村、根岸村、根市村)
○ 剣吉村(剣吉村、虎渡村、斗賀村)
○ 地引村(苫米地村、片岸村、麦沢村、高橋村、小泉村)
○ 島守村(島守村、頃巻沢村)
○ 名久井村(上名久井村、下名久井村、平村、高瀬村、法光寺村、鳥舌内村、鳥谷村)
● 町村議員の私選 三戸郡八戸町有志輩には町村制実施の期に際し、議員選出sるべきいついては、この程私選を試みたるよしとか、今その当選人名を聞く左の如しと
● 岩泉正憲、宮原直衛、成田芳雄、松原忠隆、浅田正美、久水忠太郎、奈須川光宝、島守定正、浅水礼次郎、石橋万冶、村井幸七郎、富岡新十郎、泉山吉平、源晟、橋本和吉、石橋徳次郎、福田祐記、大橋悟楼、山本勝次郎、北川半十郎、植村彦太郎、大久保平吉、岡紋次郎、長谷川幸太郎の諸氏とか聞く
● 三戸郡の私選村長 同郡において村長の私選せしというを聞くに小中野村に於いては現村長議員名誉亀徳鶴壽氏、湊村現今筆生有給酒井冶記氏、鮫村有給山田利雄氏、階上村現村会議員正部家種方由なりと
● 八戸通信 三月二十日発 脱獄者 過般重罪の予審終結者三名か八戸監獄へ脱せし内一名は青森にて自首せしかは直に八戸監獄へ護送相成りたるも残り二名今に行方知れざるも遠からず捕縛につくべしという○水車取り付け方の願い 今を去ること十ヶ年以前三戸郡沢里村山田浅次郎なる者が、村方の納得書を得て、設けられたる水車を今度類家村居住士族某が計らいとかにて、取り片付けの儀、その筋へ出願せる由なりしが、果たしてその如きものを取り上げらるるものかや
○ 引船 三戸地方より八戸迄大豆その他の産物輸出には川舟を以って運搬し居れるが、右川舟を川上三戸迄引き上げるには綱をつけて五、六名つつにて引き行くを例とし、然るにこれがため川岸を欠き崩し沿岸田畑大いに荒れたれば之を見聞きする村民共は何とか他に方法あらざるやと嘆き居れりと言う
○ 町村分合 三戸郡にては浜通村を二ヶ村に分割せられたるを村民共は、白浜村より以南、金浜村等は元の如く浜通村全体として階上村を道佛村へ合併し、又田部村は戸長役場を福岡村へ引き移し福岡村と森越村と合併し、長者村は石手洗村、中居林村、是川村と合併して、類家村、糠塚村、田向村、と石手洗村、中居林村を分割するとかにて目下請願の協議中なりという
● 八戸通信 三月二十三日発 巡査駐在所は県下各地にありて至る所其の掛札を見ざる有様なりしが近頃当地にては其の掛札を外したるか、別にいずれよりも之についての達しもなく、何によりて廃せしものなるか、従来は受け持ち部内の人民が出来事につき警察に関係あるものは駐在所にて用済みとなるべきを、この掛札と共に巡査を引き上げたるものならば、一々警察署に申し出でざるべからずべし、人民はなんらの示達なければ戸長へ伺うとか警察に伺い出るとか人民は言い居れり
○ 掲示場の貼り札 三月二十日朝、当町中央の掲示場に何者の所為なるか西の内(にしのうち・茨城県山方町西野内を原産地とする、質はやや粗くて強い厚手のこうぞ製の生漉紙)三枚程継ぎたるものに何か書き連ねて貼りありたるを警察署員が早くも認めて剥ぎ取りたる由なれば其の記載の事柄は判明せず
○ 農商工談話会 は三月十五日より十六日町天聖寺に於いて開設同十七日閉会せり、当時は会長立岩一郎氏が青森へ出張中に副会長盛城郡書記が代わりて会場を整理せしが出席印およそ二十余名にてなかなか盛んなりしという、其の中に農工商に実際関係なきことまで喋喋して会長に差し止められたる者ありたるまでなり、又本会は盛城郡書記の熱心に尽力せられたるものなるよし
○ 村の分合 につきて不服を唱えるものあるは津軽五郡のみならず南部三郡も過半は不服ありて夫々請願の手続き協議中の町村ある由、願わくは自治制の本旨に違わざる様いたしたきものなり
○ 種痘 は昨年町会に於いて衛生費決議の際、種痘医の手当てのみ六十円を要して種痘料は別に要せざる事にして種痘を八戸六日町平田医師に依頼せしに、同氏は種痘を乞う子供に対する至りて親切なれば種痘を受ける人々は深く喜び居れりという
○ 気候 は至りて温和にして積雪既に融解し去り早や草履道となりて只遠山の端に僅かの積雪を見るのみなり
● 八戸通信 四月十日発 覆没船 過る三日三戸郡北浜より柾積みとして浜通村の者四人乗り組んで漕ぎ出だせしに前夜より引き続き暴風雪の為め無残にも該転覆して同村佐川福太郎、佐々木某の二名は溺死し残り二名は帆柱に取り付き辛くも命を助かりたり、当日は非常の大雪にて七寸ばかりと積み道路一時困難の有様なりしが、今はすでに草履道となり桜綻ぶ日和になりたり
○ 和歌の会 同会は兼ねて歌道に心を寄せる石橋壽満、朝山正美、中居武次郎、及川順道の諸氏を初めとし会なるもの十四名もありて毎月十五の日を以って八戸二十六日町神明社内に開会し添削をば岩手県江刺少教正に乞えりという
○ 改姓 八戸士族逸見元吉、同與道の両氏は今回出願の上、南部の姓と名乗ることになりたるが、旧藩の時ならば藩主の姓などは外聞もよろしきかは知らざれども今時は格別の名誉にもなるまじ、如何なるいわれありて改姓せられたやと市中取り取りの噂あり
○ 公民権特免の出願 とは八戸番町大芦梧楼(安政五~大正九・八戸藩士渡辺孫右衛門四男、のちに大芦を名乗る。妻かつは三戸郡階上村の豪農、正部家善次郎の二女。八戸の町方の政派である公民会、奥南派のリーダーで、八戸町会議員、三戸郡会議員に選らばれた。次いで改進派をバックに三度衆議院選挙に立ったが当選せず。地盤は三戸、田子で被選挙権の資格を持つため、縁故のある田子村長の富田家へ養子として入り、一時、富田姓を名乗る。大芦は惑星的存在で、明治十三年の糶(せり・競ること)駒事件の際、八戸組の代表として、まず登場してくるが、その時も公会分離派か維持派かあいまいで、のちの怪物的行動の片鱗を示している。八戸の第百五十銀行の破産処理委員になり、銀行を相手どって訴訟をおこし勝訴、このときの仲間は泉山吉平と大久保平蔵で八戸経済界の大立者。後年、宿敵だった土曜会の源晟を衆院選にかついだり、公証人の職にありながら告訴されたり、上京し政友会の院外団壮士として活躍するなど行動は多彩。明治四○年の政友会県支部結成には積極的に活動し、四四年には県国民党支部を解散させ、挙県政友会入党という離れ技を演じた。壮士肌の策士として竹内清明と共に政友会を代表する政治家だったが、八戸においては北村益の反対派であったため、その才能の割りに公私とも恵まれず、議員以外の公職では階上村助役についただけ。しかし、北村ら八戸旧士族のエリート意識に対抗して平民主義を「奥南新報」を通して説き、大正の青年に新時代の到来を告げるに功があった。財政的にも精神的にも彼のバックになったのは石橋万治であった。東奥日報刊・青森県大人名事典)氏は過般公民権二ヵ年の特免を出願せし由なるが同氏は同所野田禕氏方へ同居の身分にて納税の義務を負いしことこれなき旨を以ってこのほど却下せられたるに聞き及べり、又公民権を有する念慮にて少しく土地を買いいるものもあれば、或いは名誉職に選ばれると取り越し苦労して隠居を願うものもあり、実に浮世はさまざまなるものというべき

2009年4月10日金曜日

何たる業か南郷区役所

仏教語に業に沈むと言うのがある。これは、悪業(あくごう)のために苦しみを受け、輪廻りんねして浮ばれないことを指す。南郷区民、昔の南郷村は中野地区と市沢地区が合併して南郷村ができた。昔から犬猿の仲、これが団結して南郷村、南郷と言うと思い出すのが南郷力丸、これは歌舞伎だ、青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)と読むが、この第一場に登場する、百両の金を盗ろうとするのが駒平こと南郷力丸。盗人芝居の白波五人男の一人だ。河竹黙阿弥、文久二年の作。
この盗人ならぬ南郷村、この消防団との契約にいささかならぬ不思議があった。と、言うのは、八戸市役所は消防団との契約は、その屯所の土地の借り賃を支払う取り決め、市営バスの大赤字、こいつはどうにも尻ぬぐいもきかなくて、新新町なる市営バスの元操車場に、屯所の移転を誘致して、市役所さまから銭をくすねた。小僧の時は寺の賽銭網で掬ったのを手始めに、この話知らない? 弁天小僧だよ、知らざあ言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ガ浜、その白浪の夜働き、以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児ヶ淵、江戸の百味講の蒔銭を、当てに小皿の一文字、百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんに、悪事はのぼる上の宮、岩本院で講中の、枕捜しも度重なり、お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され、それから若衆の美人局、ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父さんの、似ぬ声色で小ゆすりかたり、名せえ由縁の弁天小僧菊之助たあ、俺がことだ。
で、南郷村に21の屯所、その全部が村民が建てた。一つが村の土地に建つ。八戸市役所は屯所に借り賃を支払った。ところが南郷力丸のように屯所の地代を支払わせた。二十年の契約だ。金を返せ、八戸市役所になった、金太郎飴のように何処を切っても金太さんが出たヨで、同じ顔を見せるのサ。それが八戸市内はいいが南郷はダメじゃ、南郷に難あり。

2009年4月9日木曜日

法を勝手解釈、不尽、理不尽、算盤尽の佐々木聡

佐々木聡と山日誠一に刑事告訴され、三月は警察署と裁判所をウロウロ。裁判所は佐々木聡の名誉毀損に関わる損害賠償請求三百万円。
民事と刑事の両方で討ってきた。本来、相手を懲らしめることを狙うなら、刑事告訴一本で来る。それを両方するは、筋違いではあるが論理的には可能。刑事罰に相当すると思うから告訴をする。
 名誉毀損は親告罪。つまり婦女暴行のようなもの、被害者が告訴しなければ立件されない。警察が事実を知っても検察庁には書類は送致できない。被害者からの申告があって動ける仕組み。これを佐々木聡は悪用した。
 婦女暴行で訴えられた加害者は逮捕されるのが怖いので被害者に示談を申し込む。ところが、やったことは仕方がないと腹をくくれば、肉牛が成長すると屠殺場に曳かれ、解体されて肉売り場に並ぶ如く、エスカレーターのように次第に進む。つまり、警察で調書をとられ、検察に送り込まれ裁判で刑が確定する。刑務所に行くかどうかは裁判所が決める。
 民事はそうはならない。警察は介入しない。民事不介入の原則。ここではかくかくしかじかで、被告に金を払えとか損害賠償をしろと書面を作成し裁判所に出す。法廷が開かれる。この第一回に出廷しないと、要求が認められ否応なしに金を支払わなければならない。
 ここが民事訴訟の厄介なところ。諸君もこうしたことに遭遇しないとも限らないので注意、注意。双方が揃うと原告の言い分を聞く。次回(およそ一ヶ月後)は被告側の言い分を聞く、次が原告が異論を唱える、今度は被告と繰り返し各一ヶ月を消費しながら進む。だから裁判所に訴えを出したから来月三百万円が手に入るように思うは浅慮、浅慮。
 十分審理を尽くすのが民事だ。刑事は先ほど述べたようにプロの屠殺人、プロの肉解体士の登場と、次々に物を処理するように進行。
 ところが、これがまどろっこしくなったのか、佐々木聡が昨日(8日)、佐々木聡が雇う野中弁護士に、「明日(9日)「はちのへ今昔」が緊急逮捕される。それがいやなら金を出せ、刑事告訴を取り下げてやる」と、「はちのへ今昔」の弁護士に連絡した。これは理不尽極まりない。佐々木聡は検事総長ではない。逮捕を命令する権限もないのに、こうした言動をするは狂気の沙汰。
 告訴取り下げをちらつかせて金を奪おうは恐喝。十分審理を尽くせばいい。それが世の常だ。それもせずに金を出せと往来で通行人にやれば強盗。被告人に強要すれば脅しになる。もっとも「はちのへ今昔」はそんなことにうろたえる事もない。時間をかけて十分やろうと裁判にかけてきたが、なんらかの都合ができたのだろう。
 しかし、刑事告訴の取り下げをネタに金品をゆするじゃ太い野郎だ。法は佐々木聡の都合の良いように出来てはいない。万人に等しく出来ている。それを適当に解釈はお間違いだゼ。理不尽を算盤尽でやれば咎めが出る。法はソロバン勘定をしない所だ、だから正義の神は天秤ばかりを持ち目隠しをされる。片目の目隠しを外し、ソロバンを片手にはしないものだヨ。それじゃあ、法治国家の名が廃れるのサ。だから、法の番人の警察も検察も条項に照らして判断する。佐々木聡、貴君のようにご都合主義ではひどい咎めが天から下るようになる。
 自分のなさったことに責任がおありですゼ。医者のお坊ちゃんさま。世の中は御自分を中心に廻ってはおりませんゼ。議論、論議は尽くすもの、理不尽なことはなさらないこと。恐喝まがいの言動は紳士がとるべき態度とは思えませんがねェ。
 本日午後四時から八戸裁判所で審理がある。一歩一歩牛の歩みのように積み重ねて積み重ねて、遺漏のないように民事裁判は進めるものですゼ。

2009年4月8日水曜日

八戸市役所五月からタイムカード導入

「はちのへ今昔」に食いつかれ、勤勉でない者に勤勉手当7億3千万円支払ったと追求され、それが嫌さにタイムカードの導入決定。一年がかりだ。
 「はちのへ今昔」は市政クラブに属していない。自発的に属していないのではなく、お声がかからない野良犬。しかし、狼なみに遠吠えだ。しまいには遅刻者を写真撮影してくれた。それでも改革まで一年かかった。役所は恐竜、プロントザウルスで、尻を押せば頭が下がる、頭を持ち上げれば尻が下がるような、どうしても動きたくない動物。それでも、動かした。市政クラブに属してないから、事件現場にも行けない。写真も撮らせないで、悪戦苦闘。それでもブログ報道ですら、ここまで出来る。「はちのへ今昔」は月刊誌発行をやめた。それでも、まだブログだけでも頑張るのは嫌がられると、又、誉められたと笑う根性があるから。
 それでも、書かないでくれと哀訴される事件も多い。幾つも書かずに勘弁してくれた。「はちのへ今昔」は新聞じゃないから購読料もいらない。だから、哀訴する事件は黙る。書いたところで誉められるわけでもない、くさされるわけでもない。自己満足でしかない。四月に入ったので戦略を変更だ。つまり宗旨替えだ。更に嫌がられることを好んでやる。65歳を廻った高齢者が、今更紳士面はしない。瀕死面だからヨ。
 三八五の給食配送、昭和46年からの随意契約も、競争入札になった。「はちのへ今昔」を甘くみているからだ。佐々木聡は脅かしに行ったと書いたが、入札になるヨと教えに行ったのサ。甘い汁を吸った連中は気をつけるがいい。積年役所と癒着している連中は覚悟されたい。今年も昭和32年から甘い汁の吸い続けを見つけた。これも斬る。
 市民病院への貸付7億円、上野寛永寺一品親王の金貸しのように、千両貸して一年後に返す。利息だけいれると又貸す。これに眼をつけて千両を貸す業者が出た。江戸の昔と同じことをしているのが八戸市役所。妙な話が山盛りだヨ。小林市長がドッキリする山も捜査中。一つはできたが、後二つを追跡中だ。これが首尾よく出れば次の選挙はちょっと危ないかも。
 やはり面白いのは議員の構成する委員会。この総務、議会運営委員会は見ものだ。写真を撮らせない、録取させないと市政クラブに属さぬ者は徹底排除される。それでも、一流新聞に負けない狙いを定めている。惜しむらくは読者が少ないことだ。
 それも金目当てじゃないから道楽の範囲だが、桜咲く根岸の里の侘び住まい、それにつけても金の欲しさヨで、懐が淋しくなったので、「はちのへ今昔」得意のタンカ売、「十二支占い」で東北六県を廻ることにした。フウテンの寅さんの世界への仲間入りだ。どこかの縁日で逢うかもヨ。
 どんな喋りか? 月刊「はちのへ今昔」に掲載したものヨ、子年から亥年までを喋るのサ。通しで喋ると二時間かかる。ブログを見る人は知らないかも、少々見せる。
生まれ年で人間の性格、性状が定まると言う、子(ね)年生まれの人は金なくてなんの己(おのれ)が人生かな。
 子年生まれの人は、一に金、二に金、三に金なら死ぬまでが金、カネ、カネ、カネと、一生お金に縁のありますのが、この子年生まれの人、大きなことに間が抜けて、小さなことに汗水垂らして奮闘(ふんとう)し、お掃除洗濯が大好きで、こつこつ、こつこつ、せっせ、せっせと貯(た)めましたるそのお金、色に迷い欲にボケて、人に騙(だま)されて大損(おおぞん)をするなり。若いうちは人に言えないような苦労をなさるが、長(ちょう)ずるにしたがって、あれが天下の金持ちよ、あれが村一番の物持ちよと威張(いば)って世渡(よわた)りができるようになります。
 ねずみ年生まれの女は鉦(かね)と太鼓で探し求めなさい、所帯(しょたい)持ちが良くやりくりが上手、高砂や、この浦船に帆を上げての三三九度(さんさんくど)の杯(さかずき)をかわしましたるその晩より、へそくりを作ることを夢みております。買物上手で経済観念(かんねん)も旺盛(おうせい)、しかし、なかなか欲が深く、転んでもただでは起きないという性格。ただで頂戴(ちょうだい)できるなんて話を小耳にはさみますと、どこまでも走って取りに行くという根性だ。正月元旦のめでたいその晩に、葬式用具がタダでいただけるなんて話を小耳にはさみますと、何処までも走って取りに出かけるという。
 反対に出すと名前がついたなら、お魚食べても骨出さない、梅干し食べても種ださない、一文(いちもん)惜(お)しみの百知らず、伊勢の国が産みました、わが国天下きっての国学者、本居宣長(もとおりのりなが)という人は金貯める人の心と降る雪は積もるにつれて道を失うとあまりの強欲(ごうよく)、ケチをいましめております。
 この年生まれの人にはあの文豪(ぶんごう)の菊池寛(きくちかん)がおります。明治二十一年、十二月二十六日生まれのつちのえね年。この年のねずみは、至って智慧(ちえ)に恵まれまして、義憤(ぎふん)に富み慈悲深く、よく人の面倒をみて、世間から尊敬されます。同じねずみでも、余り人に害を与えないので一般から信用を受ける。よく人間の感情を悟(さと)るので、いつも人の心の中に入って苦労をします。
 こんな話ヨ。日本の話芸は三つ、一つは講談、二つ目が浪曲、三つ目が落語だ。「はちのへ今昔」はこの三つをこなす。講談はプロに教えた。これは前にも書いた。もう一つあるのが庶民の話芸、それが寅さんの世界、テキヤのタンカだ。これにはガマの油売り、のぞきからくり、バナナの叩き売りなどがある。一番難しいのが先生と呼ばれるロクマ。つまり十二支占いだ。これのできる人間は少ない。東京だと地下鉄の構内でできるようになったそうだ。
 縁日や祭りなど人だかりするところで「はちのへ今昔」を見つけたら石を投げないように。やられた仕返しをしようなどと良からぬ根性はお捨てになることだ。

2009年4月7日火曜日

道路維持課、便利な要綱なぜ使わぬ

八戸市役所には便利で勝手な伝家の宝刀の要綱がある。これは役人の一存でどうにでもなる代物。議会を通す必要がない。もう少し踏み込んで言えば、勝手放題、でたら放題と言えるもの。
 何、自分たちが主催の適当博覧会で、一等をとろうと目論むようなもの、たとえて言えば、教育委員会の文化賞のようなもの。外部の人間は一人も入れず、小役人物知らず、世間は役所の中にこそあるという、猛烈、カツレツ、卑劣に劣等なる奴ばらが、自分たちの都合のいい理屈をこねて、気に入った奴にくれる。もともと。こんなもの貰っても腹の足しにもならぬが、老い先短い年寄りには優先してやれ。
 年寄り叱るな行く道じゃ、子どもを怒るな来た道じゃの語もあるように、年寄りには親切にするもんだ。教育委員会はそれを教えるところじゃないのか。自分たちの都合のいいように、集団でやるところに汚さがある。自分ひとりじゃできないのサ。責任を取らされる、詰め腹斬らされるのが怖いのヨ。
 こうした奴らが考え出すのが、法律にも条例にもない要綱だ。これは議会の承認を得ない。だから、課内で適当にできる。八戸市民病院に七億の金を貸した。ところが決算書には出ない。これを現在解明中。これも要綱で決めたそうだ。七億円だぞ、七億円。これをチョイ貸しして、年度内にコラ返済で、帳簿に載らない。こりゃどうじゃで、井伊直弼の胴。これは洒落だ。
 さて、道路維持課の話だ。例の東北電力のいい加減体質で適当計算の街路灯の請求一億二千万円、これにはメーターがついてない。ところが、60Wまでは市役所の負担、それ以上のW数は町内会の負担となっているそうだ。そこで、その差額を道路維持課の姐さんが必死こいて、毎月キップを切る。支払い命令書をキップという。男立てをきっぷがいいと言うがこれは気風がいいが転じた。キップは切符だよ。割符(さきふ)を指す。手形、為替を言う。
 このキップ通りに町内会が全員決まった日にちで支払いをする。二十町内がある模様で、遅れて支払う者もいて、いやあ、頭が痛い。遅れりゃ督促だ。その手間考えたら一人の姐御を貼り付けるも愚かじゃ。全部合わせても毎月五万にみたない。人件費考えれば、既設の街路灯は100Wまでは無料にして、新設の物は60Wに規制し、100Wは破損、劣化で入れ替えは60Wしか認めないようにすれば労力の削減になろう。
 これを伝家の宝刀いい加減要綱で決めればいい。省エネばかりが資源の節約じゃない、年間60万弱の街路灯負担金を徴収しない方法も立派な省エネだ。生きてるうちに頭を使え、頭は帽子をかぶるだけじゃない。

2009年4月6日月曜日

奥南新報に見る明治四一年の八戸 その二

八戸における謡曲界
去る二日、小森栄吉宅にて本年の謡初めとして素謡会を開き、左の番組役割もって各自、興を極め夜に至りて散会せり
弱法師 シテ佐藤伊惣冶
    ワキ小森老人
鉢の木 シテ織壁賛
    ツレ女鹿左織
    ワキ奈良恒三
井筒  シテ女鹿左織
    ワキ佐藤伊惣冶
この日参会考は佐藤伊惣冶、白井清左衛門両氏を冶始とし数名の会合ありし由
● 漁業権開放請願
八戸六日町奈良弟助氏外二三人より旧臘(きゅうろう・新年から見て昨年の十二月)本県知事に対し漁業権開放の誓願をなしたる由なるが今其の内容を聞くに北海道釧路沿岸に於ける漁業権は従来同地に於ける漁業者の外他府県人に許可せざるより内地人にして漁業に従事せとするときは是非共該地方の漁業者より其の権利を借り受けざるを得ざるより縦し多額の漁収ありとすも使用料として其の過半を払うため殆ど収支相償はざるに至り出漁者の困難少なからざるを以って我地方漁民に対し特に漁業権を開放せらるるよう道庁へ交渉せられたしと言うに在りと
● 関重商店の繁昌
八戸三日町の同商店は小間物雑貨等を開業せしより数十年斯業界に於いて最も信用を得来たれるは世の知る所なれが其の取引先の卸店は福岡、一戸、浄法寺、沼宮内、葛巻、伊保内、軽米、久慈より三戸、五戸、三本木、七戸、犬落瀬、下田等外数箇所に亘り年々得意を増し注文も切れず目下旧歳末に際し居ることとて一層取引小売共頻繁を極め居れり因に同店主は仕入れの為め年々各地を巡回し一々其の品質を精査し比較的価格の低廉なる方に就いて仕入るるより売れ行き頗る速やかにして好評と信用を博し居るものなりと言う
● 野市呉服店の大売出し
客足頻繁にして日々の売り高頗る多額なりと
● 若松ホテルの好評
従来懇切と誠実を以って営業し来たれる同旅館は近来大いに業務を発展し室内の装飾器物の新調膳の原料をも精選且つ女中をも増員し専ら来客の便宜を図り待遇の改善に力むるより頓に来客を増加せる由
● 三浦商店の勉強
三日町の同呉服店にては昨年中引き続き三回売り出しを為し頗る熱心に勉強したる結果非常の好評を博せしより益々奮励して各地の産地と特約を結び新柄流行品を仕入れ盛んに旧年末の売出しを為さんって目下其の準備中なちと
● 煙草の暴騰と離縁沙汰
八戸鍛冶町の某煙草小売店主は毎日近村へ行商に出かけ留守は其の妻が引き受け販売するが例なりしが旧臘店主の留守中非常な売れ行きにて仕入れ品の全部は挙げて売り払い済みとなりしより店主が帰宅せば喜ばせんものと待ちうけたり一方は留守中価格の暴騰せしとを聞き伝え店の在庫品のみにても約十八円の利益にありつくべしと心に言われぬ程の喜びをたたえつつ帰宅してみると案に相違一点もなきより定めし妻の機敏な売り方にて暴騰価格の牽引にて利益をしめならんと思いの外別に一文の利益にもならざりしより残念と欲とが込み上がり気絶せんばかりに驚き且つ怒り竟に摑み合いの結果離縁沙汰となりしが煙にするのも気の毒な次第と仲裁者ありてその後元の鞘に収まりたりと以って煙草暴騰の激変を知らるべし
今は煙草は専売、こんなこともあったんだァ
情報手段のない明治期、今なら携帯電話でチョイも大変な進歩な訳だ
● 前原時計店の大勉強
番町なる同店にては各種時計の大安売り並びに修繕に敏なるより顧客の気受け極めて良好なりと
● 八戸製綿工場はこの頃事業休止中なるが是までの組織を改め更に業務の発展を図る由にて目下組合員協議中
● 橋源糸店の拡張 三日町の同店にては業務拡張の為近隣若松ホテルの上隣に支店を設け専ら小売を為し本店にては卸売り一方に従事する由にて支店は本日より開業せり
● 村福菓子店 十三日町の同店は従来斯界の老舗として好評を得つつあるは人の知る処なるが店主雄太郎氏は先年製造法研究の為出京し種々得る所あり就中菊羊羹餅菓子の製法に意匠を凝らし上等の美品を出し甘党の歓迎を得来れるが本年より猶一層原料を精選し勉めて廉価に販売する由
● 橋本和吉氏の母儀逝く 三日町油商橋本和吉氏の母儀は平静さしたる病気もなく和吉氏を助けて一家の経営に任じ内外の世話をしきたれしが客秋親戚たる石橋源右衛門氏の病気後落胆しその後感冒に罹り老体の事とて日に衰弱を増すの模様なるより種々医療を尽くしたるも経過宜しからず終に不帰の客となり十二月二十一日天聖寺に於いて荘厳なる埋葬式を挙行せられたりこの日会葬者数百人皆其の死を悼まざるはなし享年六八
●阿部商店  上番町の店主阿部宗蔵氏は若手商法敏腕家にして富岡新太郎氏と共に当地斯界の双璧と称せらるるが先年来重にも染料なる柏木皮の輸出に従事し年々巨額に上りつつあるは世間の知る所なるが其の剥ぎとりし残木がむなしく廃物に帰するを惜しみ之を木炭に焼き立てしに品質佳良にして改良焼きにも匹敵せるより多数の炭窯を築造し近年来盛んに焚き出し毎俵正味五貫入りと為し各地に輸出するの外市中需要者のもとめにも応じ売り出し居れるが炭質堅く砕け少なく値廉価なるより売れ行き頗る敏速にて供給し能はざる程なりと
八戸
八戸旭床勉強歌
益々進む理髪業、場所は八戸三日町
職員揃って大勉強
決しておくれをとらぬよう注意の上に注意して
貴重な時間を費やさず、御来床(ごらいどこ)ありて御試(おため)しを
体裁ほかに比類なく、早く来たりて剃りたまえ
これぞ名高き旭床
中に名高き旭床、旭側なる理髪店、刈込みなどは流行に
衛生消毒必ずに、主人は熱心大勉強、各位の方も続々と、鼻や口をばなおさねど、早く来たりて刈りたまえ
旭の額を店前に、実に盛んな旭床
各位萬々歳
陸奥八戸三日町
理髪師
旭床勉強の親玉 岩崎久五郎
● 関氏の婚儀
代議士関春茂氏三男三郎氏は二十三日町松本萬吉氏令嬢との婚約なり去る十日夜華燭の典を挙げらる因に同氏は外国語学校に学び露語に精通し居るより三十七、八年戦役の当時は捕虜の通訳として従軍せられたりことありしと
● 高沢写真館の好況
八戸鷹匠小路の同館は先年開業以来技術巧価格低廉なるより頗る好評を博し毎日客足を絶ちしことなき程の盛況にて撮影者の八分は同館の手に帰すべしとの評判なり客年上郷村有志者が日露戦役の際陣没せし者の為め資をなげうち盛大なる忠魂碑を建設しが其の篆額(てんがく・碑などの上部に篆文で書いた題字)は立見大将贈られたるものなるが其の伸写は同館主が引き受け種々考案を凝らして撮影せし丈頗る精巧を極め字々真をやぶらず活動の趣きありと
● 石田亭主人の勘違い
事旧聞に属すれど、奥南の一角太平洋の波打ちしところ、前に黄金花さくかぶ島をひかえ、白砂青松、十里の長汀曲浦を一望に収むる鮫ヶ浦の名勝に、四季折々の杖引く客を一手に負へる旅館と言えば、ハーァ、あの石田亭なるかと直ちに読者のうなづかるる所なるべし、時は去年の秋の始めの事なりとか、法学博士菊地武夫氏は東北巡遊の折り、兼ねて聞くさめヶ浦の名勝に、ささやく波を手枕に、旅の労(つかれ)を洗はばやと、同行土方博士を伴いて同旅館を訪れたり。石田亭の主人は菊地博士の来らると聞くよりも、当時日本法学界に錚々たる名士の来宿は我が館の栄誉、夢な不取り扱いなどあるなと、歓待到らざる所なかりし、然るに主人が座敷へ至り見れば、従者らしきカーキ色背広を着たる痩せ身の小男が上座を占め、金縁眼鏡に八字美髯を蓄えし立派なる紳士は傍らに座り居るこそ、主人はイクラ無頓着なる学者社会なりとて、書生か従者の癖に上座に座るとは無頓着至極な奴なるかなと、心に半ば憤れば自ずと言葉もないがしろに「そこは上座なれば、ドーゾこちらへ」と遥か末座へ招きけり、背広はウン、ソーかとばかり快く座を譲り、美髯はまた辞する色もなく、床の間背に負い髯を撫でつつシガー(煙草)を吹かしいたれば、あるじも別に怪しむまでもなく凡(すべ)て主従の取り扱いをなしおけり、翌朝に至り、あるじ自らご機嫌伺いに出で見しに、再び以前の背広が上座を占め居るにぞ、何だかヘンテコなりと段々様子を窺えば、こはそも如何に、先に従者と思いし背広は菊地博士その人にて、主人と思いし美髯は後進の土方博士と知れたれば、流石のあるじも策の出る所を知らず、さりとて今更面と向かって詫びるもキマリ悪るしと、有耶無耶の中に葬り去らんとせしが、帰るに臨みて、同亭に備えある記念帳に、ドーカ一筆と揮毫を懇請せしに、両人とも破顔一笑、先ず菊地博士は「永年の辛苦を積みし旦那様、ひげと眼鏡に横取られけり」と記すれば、土方氏も続いて「右旦那土方寧」となぐりつけたりあるじは「へー恐れ入りました」と畳にすりつけし頭の先から湯気がポーッポ
明治三六年一月創業の明治薬館、最上光男経営の広告、売薬行商者を募集、年十七より五十迄で身体健康普通学有者百人募集す、行商場は青森県、岩手県、秋田県、宮城県、福島県、北海道望みの方至急来談乞う
明治薬館の場所は広告は十三日町とあるが、昭和十二年には八日町に移っている。昔は十三日町にあったようだ。オイッチニの薬売り、富山の薬売りは戦後間もなくまで活躍、それに負けじと行商を考えたのか、昔は消化支払いの置き薬だったが。
上の理髪組合の広告は値上げ、大人十二銭、惣剃り八銭、ヒゲのみ五銭、子供は八銭、婦人顔毛剃りは四銭。
●金四円を拾う
去る九日午後四時ころ、三日町二二番戸橋本源蔵方雇い人名久井ハナは二十八日町の道路に於いて金四円を拾得したる旨警察署に届け出あり
● 違警罪処分一件
岩手県九戸郡種市村ヘルケイ四百二十六番戸平民戸主荷馬車挽き満徳松太郎(二六)は去る八日無灯火にて馬車を進行せしめたりて馬車を進行せしめたりとて科料金百円に処せられたる。
旅人宿とある。旅人以外の宿は牛馬宿、これは天聖寺近辺に多くあり。大野村あたりから、八戸に物資を運んだ馬車挽きが馬と共に泊まった。
三社大祭 十月一、二、三日
 旧暦  九月七日、八日、九日
四月十三日
● 鮫港の大火
全焼八十九戸馬一頭焼死
去る九日夜半十二時当郡鮫村大字浜通り島脇甚右衛門方より出火し折柄東南風強烈を極め家屋八十九戸及び馬壱頭を焼きその他半焼十戸並びに漁船までも焼き尽くし十日午前三時鎮火したり
▲ 出火原因は佐川仁太郎なる者味噌豆を煮んとして島脇甚右衛門方の釜場を借り同日午後より炊火をなして盛んに使用したるがその後就寝に際し火の消し方を粗漏にしたるよりかかる椿事を惹起したりと見ゆ
▲ 猛火天を焦がす 当時夜既に静まり絃歌も打ち絶えて人々眠りにつきたる頃なれば警鐘を聞きて始めて目を醒ましソラ火事よと騒ぎ立ち右往左往に馳せ廻り消防に尽力すれども火焔は益々怒りて燃え移り見る見る内に凄まじき大火になり猛火天を焦がして鮫港全体に広がり尚も海上の漁船まで及ぼし中々に鎮火するの模様なし
▲ 消防夫の駆けつけ 消防組は昨今の火災の頻々なるより警戒厳重に市中を廻り居りしに火焔の天に上るを認め直に現場に駈けつけて消防に尽力し漸くにして之を消し止めたり
▲ 焼失家屋は石田屋及び橋本旅館を始めその他貸し座敷等八十九戸土蔵四棟を焼き棄てたり
▲ 郡長及び警官の出張 船越郡長は豊山、山本、接待の各書記を従い和泉署長は斎藤、熊谷両部長並びに多数の巡査を引率して現場に出張し本県警察本部よりは急報に接し成田警部出張し救助手当て並びに調査等に従事したり
▲ 損害の概算 今回の火災に関する損害は未だ確報に接せざるも多分十二、三萬円に上るべしと噂し合へり
▲ 鮫役場の応急手段 久保村長は吏員を督励し下田初太郎、木村利平の両人に焚き出しを命じ罹災者及び消防等に之を分ちたり尚ほ翌日より炊き出しを為して一般の罹災者に対し給与しあり
▲ 罹災者の避難所 罹災者は一時学校寺院等に非難したるもその後親戚或は小屋等に移り丸焼けの姿にて一同悲嘆にくれ居り
▲ 焼失漁船の個数 未だ詳細判明せざるも多分五、六隻くらいなるべしとの評判なり特に気の毒にたえざりしは改良船の焼損なり
火事の記事には必ず近火見舞いの御礼が広告掲載され、市民の名が判明する
鮫港 橋本なを 橋本旅館 肥料商 高嶋庄次 郎 石田家主人 石田多吉 木村利兵衛
鮫村大字浜通り 早川陸奥太郎
々 海産物・肥料商 荒井八十八
々 佐川石太郎
々 松琴楼 越後もと
々 宮崎旅店 佐川留之助
々 浮木いし 
々 浮木寺

八戸町会議員名寄帳
滝沢冶兵衛
水清き沢里の岡は八戸町と相対して僅かに惣門堤を隔てた斗り、何かのときにも便利なるのみか、酒屋も豆腐屋も直く其の下にあり春は鶯軒端に来鳴き夏は寝ながら時鳥を聞く、月にはおもいを千里の天に馳せ雪に簾を巻いて階上の連峰を望む、四時の風物時折の眺め、境幽にして景佳亦是八戸の仙窟たり、去れは八戸の紳士にしてこの地を卜して別荘を設くる者前後相尋ね来泉吉氏の如き亦その一人にして建築の壮大庭園の広潤を以って(中略)氏は先代冶兵衛氏の長男にして父没後家督と共に襲名せられたるが、唯に其の名のみならずよく其の性情をも継がれたり、質実は其の性にして素直は其の情なり、上通り一流の富豪なれども誇らず高ぶらず、言語は其の服装と共に修飾することなけれど天真爛漫として無邪気なる所稚気頗る愛すべきものあり、氏或時四、五人に誘われて新地某楼に会飲す、綿服して小倉帯を締む、風采宛然たる田舎爺たり、娼妓滝冶の名を聞かざるなきも、しかも目前其の人あるを知るあたわざれば待遇粗末を極めたれど氏少しも頓着せず、傍人心つきて娼妓らに告ぐる旨あり彼らにわかに丁重を致したれど氏は相変わらず頓着せず飲みもせず歌いもしてさも愉快にその場を切り上げたりという
氏の家業は従来穀物屋にして穀物商組合にても設けなば其の地位資格さしずめ会長たるべきと無論なるが、氏は家業の外更に一程の天職ともいうべき事業を担えり産馬改良の事即ち是なり、由来八戸組に於ける畜産業は大いに振るうべくして未だ振るわざるは何故なりや、組長なる者委員なる者多くは当業者に非ずして一時資格を仮装せる雇い人を以って之に宛て其の名は産馬組合なるも其の実は党派の機関として村方瞞着の具に供するに過ぎさるは既に世人の洽(あまね)く認識する所の如くしたがいて弊害百出殆ど救うべからざるに至れり氏夙に斯業に熱心にして深く茲に慨する所あり、地方重要の事業を放つて党派の犠牲に供するの弊を矯め以って斯業を発達助長せしめんと務むるの状は真正実業者の感賞する所や頽波滔々の勢いありと雖も世人の改革を希うや既に熟せり、氏等にして努めて撓まずんば其の目的を達する蓋し遠きにあらざるべし
(後略)
浦山政吉氏
青霞堂といえば世間に知られた本屋の老舗で、其の主人が即ち浦山政吉氏である、八戸で目貫の三日町、殊に其の真ん中に店を開いて新刊の書籍を山の如く積み上げ、文房具を林の如く列ねたその奥に白髪を撫でながら座っているのが即ち日曜老人である。さては主人が二人あるのか、日曜老人とは全体何者ぞとなるに、やはり同じ浦山政吉氏の雅号せある、氏元来風流を好み茶の湯活花なかんずく俳諧を嗜み、俳名を北曜といい又梅霞ともいう、八戸俳諧壇の仲間にして例の月並み連中一種の可笑しみあり、折々奇矯の句を吐いて同人に哄笑を発せしむ、一杯々々又一杯、酒が過ぎればぶうぶう言う癖あり、こればかりは誉めたことにはあらねど、醒めての上の御分別には何の罪もないと、頭からゴンボウ掘ったと卑下するのは少々酷であろう。ほると言えば彫刻が上手だ、鮫の松月楼の欄間は氏の彫ったのであるとのことだが、この間の火災で焼けてしまったは惜しいものだ、新築の際にはまたまたお願い申します、外にも掘ったものがあるか、風流の余韻か、お年に免じて言わぬが花としておこう
氏の後継ぎを十五郎と称し現に八戸印刷株式会社社長である、当該会社は資本金一万円、払込五千五百円という大会社で、業務の一部として「はちのへ新聞」をも発行して居る、会社全体を代表する社長の下に、特に業務の一部たる新聞の主幹なりものがあった、ところが彼の名門好きの北村氏が新聞に乗り込んでから、主幹という名義ではどうしても社長の下役としか見えぬ故、己も社長と改名つけた、イヤイヤ縁起が悪い、こういう場合は名改というのだ、そんなことはどうでもいいとして、こうなって見た日には一社の中に社長が二人できた訳だ、天に二日無く家に二長なし、さても不思議な会社もあればあるものかな、察するに北村氏は名聞を飾るまでに内緒で付けた社長で、登記をした真実の社長はたしかに浦山十五郎氏であろう、氏の監督の下に、印刷の方では相応の利益を挙げうれども新聞の方は余程の食い込み故印刷行はあくせくして新聞に入れ揚げおる仕合せ、去りとて行き掛かり上、止める訳にも行くまじ、何はしかれ、八戸には旧藩主さえ子爵なのに侯爵を以ってならす北村氏の上にも立ち恐れいったる男ぶり、さて、是非見せてやりたい人がある、かほどな器量人を嗣子として養われた老人の幸福は他の羨む所であろう、
● 廻し部屋で中風
名久井の博労工藤某というハイカラは平素頗る付きの放蕩にてあっちこっちを浮かれ歩く自称艶福家として其の名も高かりしが、去る十三、四日の頃、福島の共進会へ馬匹を売る積もりにて家を出かけはしたものの湊の馴染みを見ざればなにやら気がすまじ遂に小中野に立ち寄りてふだん買い馴染みの某楼へ上り散々飲食したる末、例の如く博労相当の部屋に入れられ敵娼は来るか来るかと寝返りの百度もして待てど暮らせど来ざるより一人無闇に気をもんだ為中風病に罹り、目下同楼の二階に親戚妻子残らず付き添いてかいほう中の由、あきれきったお客様だと同楼では小言を言え居れりと投書のまま

広告から
急告
予てご案内申し上げ候中古自転車競売会相開催そうろう、左記をお含みの上、当日にぎにぎしくご来会くださりたく願いあげ奉りそうろう、十月二日、午前八時より三社大祭の中日に当たる、競売の金は自転車と引き換えのこと
八戸二十八日町
石甚自転車部

開業広告
今般永嶋酒造支店閉店につき拙者同所に於いて酒造業を開店仕りそうろう、同店同様御厚情お引き立て下さりたく願いあげそうろう。
八戸二十三日町
福井醸造店
● ここで判るのは、永嶋って酒屋の支店があり、そこを福井さんが買ったか、借りたかした。それが現在に至る訳だ。二十年程前は酒屋を営業していた。
牛豚鶏肉売り出し
卸小売とも精々割引し大勉強で販売つかまつりそうろう、相変わらずお引き立て願いあげたてまつりそうろう
八戸三日町
鶏卵問屋 千葉商店
尚、生きてる豚、子豚、並びに鶏の卵は精々高値で買い取ります、支払いは相談にのる
● これを見ると、農家から直接仕入れ、その支払いは都度現金ではなく、期日で〆(締め)てから支払いのようだ。当時の広告は漢文で文字数少なく漢字の電報のようだ。時代だナと思って笑うが、なんのことない筆者も〆なる文字を使用し、人間、古い古い。古いといえば顔も古い、この前、類家のハッピードラッグに目薬を買いに行った。年寄りになると眼が乾く、眼だけじゃない体全体が萎(しな)びてくる。このしなびるもひらがなで書きたくないのも年寄りのこだわり。
目薬を買ったら、表示価格より百円安い。今日は売り出しで特別なのだろうか、と思いながら、帰ろうとして出口で張るカイロを見て、そうそう、我が家の在庫も残り少ないと買ったな。すると又百円安い。レジで金を支払いながら、間違いかなとキョロキョロ、するとレジの横にシルバーサービスだとヨ。六十歳から上の人は百円割り引いてくれるト。
別に免許証を見せるわけでなし、レジのお姉さんの判断なわけ、顔は履歴書、フムフム、筆者も相応な年と納得、このハッピードラッグは偶数月の中、つまり十五日あたりに三日間の百円引き、あるいは一日もあるそうだが、偶数月の中日はハッピーが安い、年寄りに優しい店だナ。

大人二銭
子供一銭
まとめて七枚買うと十銭
三枚買いは五銭
月契約大人三十銭
但し二人までは約束(?)
月契約二十五銭大人
九人まで約束(?)
月契約大人二十銭 但し十人以上約束
これはつまり二人のペアで契約が十分条件というのか? 判読不能だナ
女の髪を洗うのは一回三銭
右改正そうろうなり
八戸湯屋組合
今般組合一同にて旧来の年留を全廃し特に月入りをもって勉強つかまつりそうろう、料金は前金に限りご相談つかまつるべくそうろう
● 年契約ってのがあったんだナ。銭湯の名称はまだ使用していない。湯屋ってのは江戸から使っている。
小生従来東京医科大学医院及び日本赤十字社病院勤務の処、今般辞職をし左記の地にて開業専門診療に従事す
八戸八日町四十一番戸
内科・小児科 音喜多医院
宅診午前八時より正午まで
往診午後一時より
医学得業士 音喜多政治
記念写真の大大割引
東宮殿下今回の行啓は千載の御盛事にそうろう、弊所の斯る御盛事に際して各位御肖像を写し置くは家庭における永久の好記念と存じ来二十八日より十月五日迄左記の通り割引撮影つかまつりそうろう。この期を逸することなく陸続御来写のほど希望そうろう
一定価の一割引
一定価の二割引き 白金アリスト、ピオーマット、ぴ音喜多ピー不変色ブロマイド
八戸鷹匠小路(ロー丁)
写真所 高沢春香館
● 高沢写真館は今はない。大分前、五、六年前、小中野の常現寺で「小中野サこないかい」ってのをやった。その時観客で、この高沢写真館の末裔の女性がいた。高沢氏は大変な芸達者な人だったそうだ。春が香る館、春香館はいい名だ。
萬履物・卸専業
八戸二十三日町
根城慶助商店

豚肉・鶏肉・卸小売
十六日町
松林慶蔵
東京各新聞取次所
十八日町
中居新聞店

米・雑穀麦粉・製造販売
新荒町
田村定吉

停車場前
小田牛乳店

綿製造業・夜具布団・萬仕立物・古着・卸問屋
うどん・そば・お料理
二十八日町
曙亭

塩小売所
二十三日町
工藤ふじ
三日町
杉本旅館

会席・即席・お料理・牛なべ・ぶたなべ・とりなべ 牛豚肉卸小売
窪町一番戸
晴山松太郎

最新流行・洋服仕立て所
二十三日町
浅沼裁縫店

番町一番地
白水館

陸奥八戸駅停車場前
日本逓業株式会社代理店
明治運送同盟店
原鉄運送取引店
近江屋運送店

三日町
日本同盟大旅館若松ホテル

東京村松合名会社及び岡野商店製造
鼻緒爪皮類地方特約店
食塩・荒物卸小売
履物卸商
橋本文蔵
十三日町

二十八日町
醸造元山田醤油部

専心法律事務の依頼に応ず
弁護士 今泉秀雄(続)
● 旭床の繁昌
三日町の理髪店旭床は其の位置といい店の広さといい、先ず八戸町で一と言って二と下がらぬのみか、店主夫妻の外数名の職人を使用して長時間客にあくびをさせるようなことなく、しかも丁寧至極を旨とし一同車輪になって勉強する故、其の名の旭の昇る如く日増しに繁昌するという因みに主人岩崎久五郎氏は理髪業組合の頭取なりという
同業「はちのへ新聞」社にては今回主筆に女鹿左織編集員に前田利貞の両氏を招聘せりと

2009年4月5日日曜日

八戸商工会議所食った補助金一億二百万


判っているだけでも、これだけの補助金を八戸市から貰うにもかかわらず、市役所に非協力とはこれいかに?
 昭和五十一年から現在に至るだけで上記の金員を市役所から騙し取った。騙したと言い切ることのできる、その根拠はこれだ。
 普通、補助金に対してはこれに使いますので補助をお願いしますと申請書類を出す。その金が正当だと審査され、補助金支給となる。支給されたを勿怪(もっけ・思いがけない)の幸いと違うことに使えば返却を求められる。
 これを商工会議所がやった。領収書の添付で補助金の流れが判明するが、何の商工会議所はそんなものは出さず、正当に支出したと言い張る。こんなもの知らずの腐れ野郎共には一円の銭も呉れるは愚かだ。それを八戸市役所の商工労政課は出しも出したり一億二百万だ。返せ!北方領土、返せ補助金!八戸商工会議所!
 この商工会議所の会頭は靴屋の親父だ。会頭の癖に回答もできぬ。人の財布ばかりを狙わずに、自身の力で立て。そして八戸市民のために働け。何もしないから会員は減るばかりだ。ここも茶坊主のような奴らばかり。気の利いた優秀な職員は皆やめた。後に残るのは……で淡海節、船を引き上げ漁師は帰る、あとに残るのは櫓と櫂浪の音よいしょこしょ、浜の松風、これを全国的に当てたのが大正末から昭和初期にかけて活躍した大津市堅田出身の喜劇俳優・志賀廼家淡海。大正3年頃、喜劇一座八景を結成し、大正5年から劇中で自ら歌って大流行した。
 八戸商工会議所は後に残るのは、言わぬが花ダ。その残った奴ばらが明細書も領収書も出さず、適当博覧会で、貰うのがあたりまえだと、商工会議所の決算書を出してチョン。こんなのは許されない。銭貰いは銭貰いの仁義を尽くせ、それは領収書の添付だ。それが出来ない金なら銭貰いをおやめよ。仁義を欠いちゃあ生きちゃあいけない、港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ、でよこすか、銭を?だぜ。
 人の頭に立つのが商工会議所の会頭、それが靴屋の親父じゃあべこべダ。銭貰いに徹するなら方があろう。ルールにのって請求し、使用明細を明示するんだ。それなくして、ともかく呉れじゃ妾か、それとも押し借り、ゆすりかい。紳士は紳士らしくおやりよ、それができぬは「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」でお馴染みの、通称「堀川」または「お俊(しゅん)伝兵衛」の口説き台詞だ。銭もらいは八戸弁ならホイトだよ。ロクなことも出来ない奴らばかりだ。
 かつて八戸には偉人が出た。橋本八右衛門、明治44年に水力発電を興した。八戸銀行頭取も務め三日町から小中野・鮫に路面電車を敷設せんとした男だ。これが実に美男子だ。美少年という酒蔵がインチキをしたのが昨今報道されたが、この八右衛門はキムタクなんてチンケが十人束でもかなわない。それくらい水もしたたるようないい男だ。若くて金があっていい男、それも水もしたたるような、それもそのはず、酒屋だ。銘酒「八鶴」もこの男の作。この後、幾多の血が河内屋に流れ込み、どいつもこいつも不細工な面々だ。もっとも八戸市長も不細工会の会長のようなところもあるから知れたことヨ。
 商工会議所はもっと市役所に協力しろ。手前ばかりが尊いと思い込んでいる。利巧なのが抜け、今は抜け殻のような体勢、これらにものを考察する、あるいは創造する力が不足のため、人の意見に口を挟むことに喜びを感ずる、まるで姑婆ァのように糞意地が悪い。
 頭に力がないからフラフラする。そんなのを面倒みようとする市役所もだらしがない。ダメとだらしないが共に支え合おうとするから、定まりがないのヨ。八戸のため、市民のためより自分のためじゃダメなんだ。
 ともかく、何に金を使ったか、明細を出せ。それができなければ銭を貰うな。市民の税金は商工会議所をたすけるためにあるんじゃない。市民のためにこそあるのだ。